アマゾネスの孤独 胸に秘めた熱い思いだとか麗しの君への贈りものだとか、そういうちゃらちゃらしたものはどうでもよかった。不必要なものなんてこの世には一つもないと確かに思わされたのは雨が降りそうな天気の日で、その日彼は一度死に掛けて心臓を取り戻した。その日彼女は体中の皺やたるんだ皮が変化するようにして、18歳の若さを取り戻した。 今になって思えば不必要なものも必要なものもこの世界には混在していて、それを考えるとまったくなんと世界は雑然としていることだろう。君の手にかかったらきっと要らないものは捨てられてそれはそれは合理的な世界に生まれ変わってくれることだろうよ、ハウルは皮肉にもそう考えた。普段の彼は皮肉なんて考えない――それはただきりがなくなってしまうからでもあるし、それを然して必要としていないからでもある―― だからといってハウルはソフィーと喧嘩したわけでもなければ仲違いを起こしたわけでもない。単純なことだ。なんとなくそう思ってみた。それだけ。 ハウルは無用なことを淡々と考えるのが好きだった。それは時に抽象的でもあれば現実に即したものであったりもする。彼は自称リアリストだ。魔法使いなんて、ウェールズでは考えられない職に就いたことさえ、彼にとって魔法がこの上なく現実であり、興味をそそられただけだったのだ。それを目くじら立てて怪しげな、などと捲し立てる彼の姉の方が異物に見えた。愛すべきたった一人の姉さん、僕の世界とあなたの世界は違うんだ。言ってやればよかったかもしれない。けれど姉はきっとそんなことも理解しようとせず、ただ怒鳴りつけるだけだろう。諦めたかもしれない。信じられない、わけがわからないわ。あんたは我が家の恥よ――声が聞こえてきそうで恐ろしかった。 ハウルが目を瞑ったままただじっとしていることにソフィーは気づいていた。 ハウルは眠っていない。規則正しいように聞こえる寝息だって演技、安らかに見える寝顔だって演技、何度か夜を共に過ごすようになってそのくらいは判るようになってきた。彼はソフィーが気づいていないと思っているだろうか。それならばいいと思う。弱いところなんて、誰だって本当は見せたくない。眠れないほどの悩みだって何だって、本当は誰にも知られたくないに決まっている。少なくともソフィーはそうだった。 ソフィーも眠っている振りをして身じろぎする。手を密かに彼の腕に絡ませてみる。反応はなかった。 これが昼間だったら、考えるだけでも馬鹿馬鹿しいけれど、これが昼間だったら彼は喜んで彼女を抱き締めただろう。夜と昼にどんな違いがあるっていうの、どっちも同じ一日じゃない、ソフィーにとってはそれだけのことでも、ハウルにとってはそうでないことを彼女はきちんと知っていた。 彼はただ孤独が長すぎたんだわ、ソフィーはそう思って眠ることにした。そうでもしないと彼女も不眠症になってしまいそうな気がした。明日の朝になってわがままにキスをねだる夫がそこにいれば、今はそれでもいい気がしたのだ。 孤独に苛まれるのはいつものことなので気にしないことにする。そう思っていないとどうにかなりそう、というのが正直なところだった。いくつかの世界を行き来することのできる自分はこの世でたった一人だけなのだろう。どんな世界に行ってもきっと一人だけ。それはちっとも楽しくなかった。愉快でもなかった。どこまで行っても自分だけ仲間はずれにされているような気がした。そう思ってしまった自分は確かに子どもだったのだろう。今はそんなこと思いもしないし考える余裕もない。 「ねえ、生きていくために必要じゃないものはすべて切り捨てられたら楽だと思わない?」 だから君がそんなことを言い出したことにとても驚いた。日々の生活イコール安息を地で通す君のことだったから、そんなことを言い出すだなんて考えもつかなかった。 「どうして?」 声がかすれてしまった。その瞬間、自分が世界でたった一人だとかそんなことを考え込む余裕が欠片も無くなったのを知る。 必要じゃないのは何なのだろう。部屋を掃除するように、あっさり捨ててしまえるのだ、君は。だからいつも恐ろしくて仕方が無い。 「なんとなく。そうすれば余計なものに煩わされなくていいじゃない」 醜い嫉妬も知らず他愛ないおしゃべりも知らず。そんなの嫌だと君は言うだろうけれど。君が言っているのはそういうことだよソフィー。それに堪えられるの?それは幸せなの? 「余計なものが嫌い?」 「ハウルは何が余計だと思う?」 一番余計で半端なものは自分だ。 「わからないけれど、無かったら無いで寂しいとは思うよ」 まさか奥さんとこんなことを話す羽目になるなんて考えたこともなかった。頭のいい人は好きだけれど勘の鋭い女は不幸になりがちなんだ。 「この世の中っていうのは広くてね。その中には狩りをするのに邪魔だからと言って乳房を片方切ってしまうような人たちもいる。あんたの言うことはそういうことになってしまうよソフィー」 ハウルは何故か苦しそうにその言葉を吐き出した。 そんなこと考えてもみなかった。ただのおしゃべり、話題も無いからすっきりしたことでも話そうかとそれだけだったのに。 「…知らなかったわ」 だろうね、ハウルは頷いてまぶたを閉じた。 「もう寝るの?」 「あんたがもっと僕に甘えてくれるなら寝てなんかやらないよ」 ハウルはソフィーの腰を抱き寄せて耳元で囁いた。 「もう寝なさい」 「冷たいな」 「何とでも言って」 「…不必要なものがこの世にはたくさんあるんだ」 例えばミーガンにとっての僕、君にとってのくもの巣やほこり。 ソフィーは顔をしかめた。 「自分とくもの巣を一緒にしたりしないで」 「でもそういうことなんだよ」 「違うわ」 「違わない」 ソフィーは憮然として口を噤む。こんな自虐的な口をどうにかして塞いでしまいたい衝動に駆られた。 「でもそれは不必要なのかな」 「違うわ。あたしには必要だもの」 「…じゃあそういうことだよ。あんたには不必要でも誰かには必要なものだってたくさんあるんだ」 なんだか子どもを宥めるような口調であることに怒りを覚えた。でも確かに彼の言うことは的を射ているのでソフィーは何も言い返せない。 「…もう言わないわ」 「何を?」 「切り捨てられれば楽だなんて」 ソフィーはハウルの首に腕を回してかじりつくように抱き締めた。 「そんなのさみしいもの」 ハウルはソフィーの温もりを腕の中に感じながら自分が遠のいていってしまうような心地を覚えた。彼女の体も唇も熱も乳房もここにあるのだ。それなのにそれらがすべて感じられなくなってしまいそうな気がした。あわてて強く強く抱き締める。 痛い、ソフィーが言うけれどハウルはそんなことに気を留めもしない。そんなのさみしいものと言ったその口で愛を囁いて欲しかった。今すぐに。そうすれば世界が美しいだなんて戯言を信じられるような気がした。 |
*POSTSCRIPT* 何がなんだかわからないままシリアス話。 |
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