恋人について




 彼について。
 どうしようもないひと。臆病者。弱虫。自分の外見を気にしすぎ。本当はそんなことをさほど気にかける必要がないほどきれいなのだから、そこまでしなくてもいいのに。
 家のことには無頓着。だから部屋は散らかすし浪費癖だって収まるところを知らない。
 女好きもどうにかして欲しい。良く言えばフェミニストなんて、こんな場合も当てはまるのだろうか。
「…またなのよ」
 これで何度目なのかしら。
 ソフィーは呆れたように扉の向こうを睨み付ける。その先には彼女の恋人であるハウルが立ち往生しているはずだった。
「カルシファー、絶対ハウルを家の中に入れちゃ駄目よ」
 ソフィーは怒っていた。しかしいつものように顔を真っ赤にして癇癪を起こすわけではなく、あくまでも静かに、ふつふつと怒っていた。
 こんなソフィーを初めて目にするカルシファーは、古い友人、ハウルよりも目先の恐怖を優先させた。今ソフィーに逆らったらどうなるかわからない。
「まったく、よくも懲りないわよね」
 そうだなあ、答えるカルシファーの炎が揺れた。
「今度こそ許さないんだから」
 ソフィーは目が少しだけ潤んだのを感じて唇をかんだ。

 彼女について。
 真面目で地味なのが好きで(理解しがたい)きれいでかわいい。長女であることを何故かすごく気にしていて、自分は何をやってもうまく行かないんだとかたくなに信じている。
 照れ屋で奥手な癇癪持ち。キスしたら真っ赤になるし、抱き締めるとどうしていいかわからないとばかりに体を硬直させる。(そこがまたとびきりかわいいんだけど)掃除には特に気を使っていて、少しでも散らかすとすぐに怒る。
「ソフィー!」
 いつものように、喧嘩の挙げ句に叩き出されるなら何も気にしなかったけれど、こんな風に締め出される理由がさっぱり思い付かない場合は別だ。
「ソフィー、僕が何かしたのかい!?」
 思いっきり悲壮に叫ぶ。そうでもしないとソフィーは分かってくれない。
「僕が一体何をしたんだ!」
 心の底では冷や汗が滝のように流れていた。
 何が、何がばれたのだろう。
 値段を考えずに服を山ほど買い込んでしまったこと?
(いやしかしそれにはソフィーへのプレゼントも混ざってたじゃないか。却下だ)
 花屋でソフィーに目をつけていそうな男の客に片っ端から軽く呪いをかけたこと?
(でも最近あいつらは花屋に来てないじゃないか!いや来れないが正しいか。これも却下)
 サリマンに仕事を押しつけて遊びに行ってしまったことだろうか。
(そういえばソフィーの妹レティーはサリマンの弟子だ!きっとこれに違いない!妹のために怒っているんだ!)
「ああごめんよソフィー!僕が悪かった!さすがに大人気なかったよ…でもちゃんとやることはやってるしそんなに酷い負担をかけたつもりは…」
 唐突に。
 至極唐突に扉が開いた。あんまりに大きな音だったから少しだけ(ほんとはかなり)扉の心配をしてしまったが、今問題なのは愛しい恋人の反応だ。
 個人的な希望としては、ごめんなさいと言ってソフィーが抱き付いてきて、怒ってなんかいないさスイートハート、僕の子鼠ちゃん、さあ体が冷えてしまったから温めて欲しいな、と耳元で囁いた自分に、真っ赤になった彼女が戸惑いながらもキス、そこから先は鍛え抜いた手練手管で彼女と一緒に風呂に入る方向に持っていって、そこまでくれば後は済し崩しにベッドにゴー!という陳腐だか実に素晴らしい展開だ。
 さあ来てくれソフィー、僕はいつでも準備万端だよ。そう思いつつ――顔には出ていたかもしれない――城に足を一歩踏み入れると、そこにソフィーはいなかった。

 ソフィーは今度こそ終わりだ、と確信していた。
 やることはやった!?どういうつもりなのだろう!浮気の謝罪のセリフがこれだなんて!
 今度こそおしまいだ。きっとハウルはソフィーが出て行ったことにも大した感慨を抱かずに暮らしていくに違いない。城の中はどんどん汚れていくだけだ。
 どんな掃除婦だって裸足で逃げ出してしまうわ、ソフィーは思った。
 きっとどんな家政婦を雇ってもあのわがままな男について行けずに辞めてしまうだろう。結局あの城で家族の世話を焼けるのは自分くらいなものなのだ。
 ソフィーはハウルの言葉を聞いて衝動的にがやがや町に飛び出してしまった。それからまだ一時間も経っていない。それなのに――
「もう、帰りたがってるだなんて…っ」
 自分は長女だ。成功しないことなんかわかっていた。あんな幸せで楽しい生活がいつまでも続くはずがないということだってわかっていた。だから大丈夫だ。大丈夫。地味に暮らしていればそれなりの生活が得られるはず。
 どうせ本来ならこれからのような地道な生活を過ごすと決まっていたのだ。前の暮らしに戻ると思えばさほど辛いこともない。
 ソフィーは足早に歩く。目が霞んでよく見えないような気がしたけれど、きっとそんなのは気のせいだ。

 いるはずの人がどこにもいないのを知って、ハウルは呆然と立ち尽くした。
「…カルシファー」
「ソフィーならあんたが謝ったあたりで飛び出していっちゃったぜ」
「何で!」
「言い訳がまずかったんだろ」
「そんな不用意なことは言ってないはずだ!」
「いーや言ったね!あのソフィーが泣いて出て行ったんだから!しかも荷物までまとめて!」
 喧嘩腰になっていたハウルの顔が青ざめる。
「荷物までまとめて…?」
 ハウルは何かに気付いたようにソフィーの部屋へ駆け込む。そこは見事なまでにがらんと殺風景だった。クローゼットの中には自分が買い与えた服だけが残っている。
 目まいがした。
「カルシファー!」
 バタバタと階段を降りてきたハウルにカルシファーは冷たい視線を投げ掛ける。
「ソフィーは!ソフィーは一体どこに行ったんだ!」
「おいらは知らないよ」
「あんたが知らなかったら誰が分かるっていうんだ!ソフィーが飛び出して行くのを見てたんだろう?止めもせずに!」
「止めようとしたけどソフィーはおいらの言うことなんかこれっぽっちも聞かないで出てっちまったよ」
「ああソフィーどうして…駄目だ…もう絶望だ…この世は地獄でしかない…ソフィーがいない生活なんて…!」
 ハウルはその場にくずおれる。このままでは緑のねばねばだってそう遠い話ではない。
「なら探しに行って連れ戻せばいいだろ!頼むから緑のねばねばはやめてくれよう!」
「どこに行ったかもわからないのに…」
「がやがや町だよ!お前それでも魔法使いかよ」
「…知ってるじゃないかカルシファー」
 カルシファーはしまったとばかりに口を塞ぐ。しかし、それももう意味がない。
「そうかそうか、不親切な青びょうたんは僕を欺く気だったのか。しかもソフィーの行き先を言わないってことは帰ってきてもらいたくないのかな」
 カルシファーは何も言わないけれど、彼はソフィーのこともハウルのことも、彼らが予想しているよりもずっとよく知っている。
 ハウルは暖炉を一瞥すると扉へ向かう。
「まあいいさ、今は全部後回しだ。留守は頼んだよ嘘つき悪魔のカルシファー!」

 がやがや町はソフィーの生まれ育った町だ。
 何がどこにあるのかもよく分かっているし、暗くなると意外と物騒だということも知っている。
 日が暮れ始めているのに気付いてソフィーは戸惑った。何しろ行く当てがどこにもないのだ。
 妹のところに行こうと考えなかったわけではないけれど、マーサはチェザーリの店に奉公中の身、押しかけるには忍びない。レティーはキングズベリーのサリマンの元にいるのだ。
 母親のところ――も、少しばかり遠い。
 このままではただ町をうろつくだけになってしまう。
 正直なところ、もう嫌だった。
 騒がしい暖炉や恋人のわがまま、温かいスープにお風呂、それからすぐに散らかってしまうけれど広くて心地良いベッド、何よりハウルその人が恋しくてたまらかった。
 こんな風に一人でいるなんて嫌だ。
 柔らかい唇の感触に髪のにおい、大きな手に骨張った背中、優しい体温。優しい体温。失えるはずがない。
 けれどあの人の綺麗な翠の瞳が他の誰かを見ているなんて、そんなこと耐えられない。
 もう涙は涸れきってしまったと思っていたのに、気付いたらまた零れて止まらない。
 声をあげて泣くことなんて、もう忘れてしまった。
「お嬢さん」
 後ろから声をかけられて、振り返りそうになったのを思いとどまる。涙でぐしゃぐしゃの顔なんて誰にも見せたくない。
「どうかしたのかい?」
 少しだけ迷ってから、ソフィーは言う。
「別に何も。お気になさらず」
「そうはいかないな。きれいなお嬢さんが困っているのを見過ごすなんて!」
「本当にいいんです。ただのひどい花粉症ですから」
 言うつもりもない言い訳がするすると口から流れだすのがなんだか奇妙だ。後ろの誰かはきっと困っているだろう。
「…おやおかしいな、僕の未来の奥さんは花粉症なんかじゃなかったはずだけど」
「当然よ。あたしはあんたの奥さんなんかじゃないもの」
「ああ、そうだね。まだ婚約中の身だ」
「…どうして追いかけて来たの」
 髪を一房持ち上げられる。街灯の光をうつしてあかがねが鈍く輝いた。
「もう夜になる。早く帰ろう」
 髪に口づけられたのを感じて、ソフィーは肩を震わせた。
 今すぐ、今すぐにでも彼の胸に飛び込んでしまいたかった。
「質問に答えて」
「ソフィー」
 じゃああんたはこっちを向いて。
 低い声が耳元で囁く。
「いやよ」
 どうせ丸め込まれてしまうのは分かっていた。
「絶対いや!」
 いっそ嫌いになってしまえばいいのに。けれどそんなことできるわけがないのだ。
「ソフィー」
「あんたが知らない女の人と仲良さそうに歩いてるのを見たわ。すごくきれいな人だった。あんたはあたしが知らない顔で笑ってたの。あんたを尋ねてわざわざ城まで来た人もいた。その人は泣き崩れてこう言うの。『この間愛してるって言ってくれたばかりなのに!』」
「僕が、信じられなくなった?」
「違う、違うわ。ただあたしが…あたしが、怖くなっただけ…」
 持っていなければ失うことなんて怖くないんだと思ってしまっただけ。
 ハウルはソフィーの腕を引くと黙って歩き始めた。
「ソフィーが泣いてるところを初めて見た気がする」
 強く掴まれた腕が痛かった。ハウルが城に帰ろうとしているのだということもすぐにわかった。
「ハウル離して」
「嫌だね。また逃げられるのはごめんだ」
「痛いわ」
「僕の心臓はもっと痛かった」
 ハウルは魔法に頼ったりはしなかった。ただ黙々とソフィーの手を引いて歩く。
 ソフィーからは彼が今どんな顔をしているのかさっぱりわからない。怒っているのだろうか、困っているのだろうか。泣いているのだろうか。
「ハウル」
「あんたにだけは誤解してもらいたくないから言うけどね。昔がどうだろうと今何が起こってようと、僕がずっと一緒にいたいと思うのも泣いてるところを見せられるのも、愛してるのもソフィー、君だけだ」
 ハウルの声は段々と掠れていってしまって、最後なんかは聞き取ることに苦労した。
 いつもの流暢な声が言葉が今だけはどこにもなかった。
「…あんたは自分勝手だわ」
「うん」
「誤解も何も、言い訳にもなってないじゃないの」
「うん」
「でも…あたしが愛してるのもあんただけだわ」
 頭の中が妙にすっきりしている。そう、愛してるのは彼一人だけ。ただそれだけのことなのに。
 ハウルは何も言わずにソフィーの腕を掴む手に力をこめた。やっぱり痛かったけれど今だけは。今だけはこのまま。



 




 *POSTSCRIPT*
 なんていうかちゃんと完結してない感じですよね(でも書き直す気は無いという困ったことに)



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