これで最後




 謎の手当二万が消えた。
 給与明細で改めてそれを確認して、小さくガッツポーズ。何があっても今日はご機嫌だ。
 営業の、しかも社長のぼんくら息子のアシスタントをさせられていたのはつい先日までの話。聡子に彼氏がいることが証明されてからボンの態度は豹変し、新卒が入社したのを機にとうとう営業アシスタントを降ろされた。人事のタイミングとしてもボンの意向もぴったり合ったのだろう。聡子も元の事務職に戻ることを希望していたし、新しく入ってきた派遣のフリーの女性や新卒がボンは気になって仕方がないらしい。
 若い子大好きだもんね、聡子は自分が付きまとわれていた時期を思い出して顔をしかめる。
 自分があそこから抜け出すことができた代わりに他の誰かが犠牲になる。嫌な構図だ。けれど代わる気になれないくらいには自分の身が惜しい。
「ナカミネ、おかえり!」
 それに事務のみんなは歓迎してくれた。正直、新しい人が入るより仕事の手順も何もかも知っている聡子が入る方が仕事の効率はいい。
「やっと帰って来れたよ〜長かった!」
「大変だったもんね。もうボンの下で働かなくていいと思うと天国でしょ」
「もう、あそこ以外ならどこでもいいわ!」
 聡子だけでなくタグチも楽しそうに笑う。友達甲斐のある友人だ。
「でしょ。ってかナカミネ今日の夜空いてる?飲みに行かない?歓迎会兼ねてさ」
「歓迎会っていうよりおかえり会ね。いいよ、行ける」
「あ、良かった。ちょっとそのとき話したいこともあるんだけど、いい?」
「いいけど…タグチ何かあったの?」
「んー…たいしたことじゃないんだけどね」


 タグチの話はなんとなく予想できるものだった。社員でそれを考えていない人間の方が少ないだろうから。
「仕事辞める?」
 ビールをジョッキで豪快に飲むタグチはあっさりと言った。正直、それほど驚かなかった。
「そのつもり」
「まだ4月だけど」
「だからきりのいいところで、夏までで終わりにしようかなって」
「…何でそんな、急に」
「急でもなんでもないわよ。いつまでこの会社にいることになるのかとか、将来結婚したらとか、そのときの経済状況とか、続けられる仕事かどうかとか、色々考えて」
 会社はいずれボンが社長になる。そうなったらおしまいなのは確実だ。もちろん聡子もずっとこの会社にいるつもりはない。
「もしかして、結婚する予定あるの?」
「ううん。それは無い。けどね、見切りつけちゃったからには早めに転職した方がいいもん」
「そっか、そうだよね…」
 そういえば自分もついこの間まで本気で転職を考えていた。
 あのときはもう耐えられないと思った。ストレスに押し潰されてしまいそうな日々。もう二度とあんなのはごめんだ。
「そっかあ…寂しいなあ」
「聡子はどうするの?そのうち転職するつもりはあるんでしょ?」
「うん。営業にいたときは毎日辞めようと思ってたけどね。事務に戻してもらったってのもあるから、もうちょっとやらないとかな」
「そっか。結婚は?噂の男前と」
「うーん。どうかなあ。あたしはしたいけど」
「遠距離でこれだけ続いてるんだから、近々結婚するんだと思ってたわ」
「そうならいいけど」
 どうなんだろう。冬原とこれからずっと一緒にいたいという気持ちはあっても、結婚というのは気持ちだけでするものじゃない。
 聡子も冬原もまだ24歳だ。今年25歳になるとはいっても、短大卒の聡子はともかく冬原は働き始めてそう長くないだろうし。
「わかんない。状況とかタイミングってあるしね」
 そんな話をして笑っていたのは4月の終わりの話。


 それからプロポーズされて指輪をもらったのは、7月の話。
 来年になれば仕事も今よりは落ち着くようになるらしいので、籍を入れるのはそのときになる。


 ザ・封建会社な聡子の勤め先では、左手薬指の指輪を見つけられたときから聡子が近々寿退社するものと決めつけられていた。
 どちらにしろ仕事は辞めるつもりだったからいいけれど。冬原が普段家にいない分、家のことは何でも一人でこなすことになる。仕事をしていてそちらを疎かにするわけにはいかないし、タイミングも良かった。ストーカー紛いのことをボンがしたせいもあって、冬原も聡子の職場に心配があるらしい。できれば辞めて欲しいと言われて、つい喜んでしまった。
 ただ会社側の考えている時期と聡子が考えている時期が噛み合っていなかったくらいの誤差はあったのだが。
 タグチはおめでとうと言ってくれた。退職するときも一緒かもね、なんて言いながら。来年の3月までは勤めるつもりと言ったら驚かれた。
 そして誰も彼もが大体そんな反応だ。ボンを除いて。
 ただ奴の場合は裏で何を言っているかわからないところが問題だけれど。
 しかもある意味で予想通りだったのだが、結婚準備が遅々として進まない。片割れが海に潜って連絡がとれないために意思確認ができないのだ。聡子一人で進めるわけにもいかないし、本来ならば婚約者同士、二人で出かけるようなところに一人で乗り込むのも気が引けた。いざとなったらできるけれど、逆にいえばいざとならなかったらできない。  どうすればいいかと頭を悩ませているとあっという間に冬になった。タグチも退職して新しい職を見つけたという。それに比べて自分のなんと中途半端なことか。
 夏にプロポーズされて結局したのはお互いの親に挨拶をしたくらいだ。あとは結婚式のスケジュール調整。一応結納も済ませた。あっという間に時間ばかりが過ぎていく。


「結婚って大変ね」
「何、急に」
 3ヵ月ぶりに会った冬原は相変わらずだ。聡子の腰を抱き寄せてまぶたにキスをする。
「んー、このままじゃ、一生かかっても結婚式挙げられないような気がしてきた」
「…まあ、確かに」
 冬原としてもこの状況には思うところがあるらしい。
「式挙げなければそう大変でもないんだろうけど、そういうわけにもいかないしね。聡子のウェディングドレス姿見たいし」
「あたしもいつもよりかっこいいハルを自慢したい」
「自慢って」
「あたしは別に美人でもなんでもないけど、こんなかっこいい王子様捕まえちゃったのよってみんなに見せびらかすの」
 冬原は聡子の額にデコピン一つ。ごくごく軽くだ。痛くもなんともない。
「美人じゃないなんて言わない。聡子みはね、美人ってよりもかわいいって言うんだよ。それに聡子のかわいいとこもきれいなとこも全部、俺だけが知ってればいいの」
 冬原が拗ねたように言うから、なんだか笑いが込み上げてくる。
「ハル」
 聡子は冬原の膝の上に乗り上げて、まぶたにキスをお返しする。
「ハル」
 冬原はかなりのキス魔だ。なので聡子はいつもやられっぱなし。さすがにそろそろやり返したい。今度は額、頬と立て続けにキスをする。
「ねえ、ハル」
 冬原はくすくす嬉しそうに笑ってどうしたの、と言う。
「愛してるわ」
 唇にキスをすると冬原は腰に腕をまわして聡子の体を抱え込む。主導権が一気に逆転してしまった。言葉じゃなくて態度で返すような激しいキスに頭の中が痺れそう。
 名残惜しそうに唇が離れる。
「早く結婚したいな」
 冬原はぽつりと呟く。
「本格的に聡子を独り占めしたい」
「本格的って」
「法的にも俺のものになるでしょ」
「ジャイアンだ!欲張り!」
「聡子相手にしたら愛と欲望しか残んないよ」
 どこの少女マンガかレディコミか、胸の奥がむず痒くなる。
「早く結婚するには準備をしっかりやんないとね」
「ああ、そう、それについて考えたんだけどね」
 真面目な話になりそうだったので聡子は冬原の腕の中から逃れ出る。
「大体のところはさ、聡子が好きにやっちゃっていいよ。衣装とか指輪とかどうしても俺がいなきゃいけないとこ以外は」
「え」
「もし悩むことがあったらメールして。寄港地で返信するから。で、返信ないようならお互いの家族に相談。うちの親にもばんばん連絡しちゃっていいから。むしろ式の準備に口出せるの嬉しくて仕方ないと思うよ母親は」
「え、ちょっと、ちょっと待った」
 立て板に水な冬原の話は非常に魅力的だ。魅力的だが――
「ハルの意志は?自分の結婚なんだから、希望とかはないの?」
「うーん…多分ね、一緒に準備やら何やら考えることがあれば希望も出るだろうけど、まあ、聡子のセンスは信用できるし。指輪だけは俺も選びたいけど」
「いいの、それで」
「いいよ。正直そこで悩んでなかなか式挙げられないとか困ったことにはしたくないし、今言ったでしょ、できる限り早く結婚したいんだよね俺」
「…ハル」
「はい」
「大好きよ」
「なんか今日は大サービスですね聡子さん」
「あたしも」
「ん?」
「あたしも、出来る限り早く結婚したい」
「うん、そうしよう」
「あたしもハルを独り占めしたい」
「もうしてるよ」
「もっとしたいの」
「ジャイアンは聡子の方だね」
 どちらからともなくキスをすると、なんとなく泣きそうになった。
「あたしがんばるね」
「うん、傍にいれなくてごめん」
「ねえハル、謝るのはもう無しにしよう?そういう人と一生一緒にいるって、決めたのはあたしなんだから」
 冬原の謝ることは一切無いのだ。傍にいることができなくても、いくら連絡がとれなくても。
 冬原はまた小さくごめんと呟いた。だからそれは無しでしょ、と言い返せば、ごめん、これで最後と耳元にキス。
 春はまだまだ先だけれど、きっと気付けばあっという間だ。












SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送