夏、教室、机の下 うつりかわるときがおそろしいのではなくていとおしいのだときづいたのはいつであったか。いまはすでにうしなわれてしまってとりもどせないそれをどうしてもほしいとおもうのはみがってか。ほんとうにほしいのはうしなわれたものなのだということをいつまでもいつまでもみとめようとしないことはおろかであるのか。わたしはこたえをしらないがことばをつくすことだけはできる。ぐしゃはまなぼうとしないかぎりぐしゃのままである。 荒い息遣いがする。 これは誰の声だろうか。 (わたしだ。じゃあわたしって誰。わかんない) 今まさに生まれたような気分で夏は目を覚ます。滑らかなシーツを求めて手を這わせればそこにあるのはごつごつとした固い床ばかり。何か金属の棒のようなものに触れてから顔をあげる。ゆるゆると目を開ければそこには学習机があった。そして椅子。それが室内に横七列縦五列で整然と並べられている。乱れているのは夏の寝ていた周りだけだ。部屋の正面には教卓と黒板。黒板消しが台の上に落ちていて、白墨の粉が散らばっている。昨日と同じだ。まったく変わらない。夏の手首を捕らえている手錠すら変わることはない。相変わらず机の脚と繋がれたままだ。変わったところといえば昨夜は裸だったけれど今は服を着ているということか。男物のワイシャツ一枚。それも汗くさい。自分の制服はぐちゃぐちゃに一ヶ所にまとめられている。 (死にそう) それを見てため息をつくと、教室の扉ががらがらと音を立てて開いた。 「おはよう、藤堂さん」 おはようなんて返事をしてやるつもりはなかった。一昨日まではクラスメイトでも今はただの加害者だ。 「いつまでこうしてるつもり」 「挨拶は人間の基本だよ」 「人間らしい生活をさせてくれないのは誰よ。こんな、犬みたいな…」 「犬じゃないでしょ。首輪もつけてないし散歩に連れてくわけでもない」 「…あんた馬鹿よ」 「そのあんたっていうの、いい加減やめようよ。名前で呼んで。ほら、春樹って」 「…渡辺」 「だからそっちじゃなくて下の名前で」 「いいかげん、帰して」 「それは嫌だ」 こうして繋がれてから夏と彼はいつも同じやりとりをする。「帰して」「嫌だ」埒が明かない。 「水とごはん、どっちがいい?」 けれど与えられるものを拒めば自分が辛いだけなのを夏は学んでいたので、素直に答える。 「水」 「じゃあ口移しで」 渡辺を蹴ろうと足を上げたらぜんぶ見えてるよ、と言われて夏はゆっくりと足をおろした。今更だったけれどわざわざ喜ばせてやることはない。血が固まってかぴかぴに乾いたそこはひどく気持ちが悪くて不愉快だった。 藤堂夏が渡辺春樹の存在を知ったのは四月。その春は例年に比べて気温が低く雨も多いと話題だった。ああもう春なのに不思議なもんだわ、と夏は毎日のように言っていた。ニュースでも異常気象だと騒いでいたのをよく覚えている。 「はじめまして」 その声が春よりも不思議なほど響いていて、夏は少しだけ眩暈を覚えた。 けれどよろしくお願いします、で自己紹介が終わった瞬間にすべてはどうでもいいことのように感じてしまった。それが高校二年の春。その後も渡辺春樹はでしゃばらなかった。目立たなかった。埋没する存在であると全身で主張していた。いつでも消えてしまえるように。 「藤堂さん。夏さーん。夏。なつー」 「呼び捨て禁止」 「呼ばないと寝るでしょ」 「寝ないわよこんなあっついとこで」 今は夏休みだ。お盆真っ盛り、どこの部活も休みだし教師もいない。学校に潜伏していてもばれやしない。気づいてくれるのは家族だけだけれど、夏の場合は日ごろの行いのせいで期待できない。彼氏の家に泊まったり友達とオールでカラオケに行ったり、夜を遊び歩いていた。親もあきらめて連絡してこない。三日や四日いないところで当たり前のように扱う。 「シャワー浴びたい。ありえない。もうやだ」 「シャワーはね、もうちょっと後で」 渡辺は食えない男だった。そして何を考えているのかもよくわからない。チョロそうな根暗男、と思って何度か騙そうとしたけれどうまくいかなかった。 「夏さんはね、思ってることがすぐ表情に出るんだ」 「そんなことない」 「そうだよ。ずっと見てたんだから間違いない」 いつどこで何時何分何秒、と小学生のように言えば馬鹿じゃないのと返ってくる。そんなことを言いながら渡辺の手は指は夏の服を脱がしていく。今のやりとりのどこに欲情するのか。男とは不可解な生き物である。 「…わたしきっと近いうちに病気になるわ」 「俺なしじゃ生きていけない病?」 「性病。生理中にこんな汚い教室で汗だらだらかいて体も洗わないで突っ込まれてんのよ。絶対なる。間違いない。っつかてめえがなっちまえ」 「言葉が悪いよ夏さん」 「わたしあんたが嫌いよ」 渡辺は夏の足を開いて太ももをなぞる。 「ころしたいくらい、きらい」 夏の足の間からは血が少しずつ流れていた。 「夏さんの言葉には現実感がない。いつでも浮いてるみたいに殺したいって言う」 それを感じる度にはじめのうちは泣きそうになって、しばらくしたら慣れた。 「だから、安心」 膣に歯が生えないだろうか、どうにかして。肉食獣の犬歯がいい。そしたら噛み千切って咀嚼してしまうのだ。この男が泣いてひれ伏すのを願ってやまない。 夏は自分の中に入り込んでくる指のせいでどろりと血以外のものが出てくるのを知って苛立った。それから渡辺が夏の『呼び捨て禁止』を地味に守っていることにもむかついた。死んでしまえ。 夏休みに学校に来る用事なんてよっぽど特別なことじゃなければないものだ。 夏の場合は彼氏だった。部活で試合があるからと言われて見に来たはいいけれど、暑さで目が回りそうになったので校舎に入った。そのときはまだ校内に教師がいたため、職員用の玄関が開放されていたのだ。そして運の良いことに、グラウンドを一望できる教室がこの校舎にあることを夏は知っていた。夏のクラスの教室だ。そこにいれば試合も見れるし暑さもしのげるし座っていられるし、といいことずくめだと思って鼻歌混じりに階段を上った。 実際、窓から吹き込んでくる風は涼しくて快適だった。教室から見る彼氏はリップクリームくらいの大きさで、明るい茶色の髪が遠目に目立った。夏にはサッカーのルールなんてわからないけれど、彼を見つめておいて、勝てばまあ、適当にすごーいと褒めて褒めて機嫌をとればいい。負ければ何も言わなければいいのだ。下手に慰めて墓穴を掘ることはない。プライドの高い男は扱いやすいから、楽。 しばらくすると彼氏がゴールを決めた。どうでもよかったけれど点数を確認する。三対一で勝っていた。 「おなか痛いなあ」 今夜彼氏は部活仲間と浮かれて騒ぐのだろう。夏が入る隙なんかどこにもない。どうせ生理中だからセックスもできない。一緒にいても彼氏にいいことはないのだ。だからあらかじめ先手を打って今日は試合を見たら帰ると伝えてあったし、彼氏もそれでいいようだった。生理だということを知っているからだ。ヤレなきゃ用は無いのか、と思うけれども、夏にしてもヤレない時に男と会ってもいまいちどうしていいかわからなかった。恋愛なんて肉欲だ。本能だ。こころとからだは別なのだ。 ホイッスルが鳴った。試合終了だ。スコアは三対一で変化なし、勝った。 「あれ」 がらがらがらと戸が開いて、後ろから聞いたことのない声がする。驚いて振り返るとクラスメイトがいた。 「あ」 さて、彼の名前は何だったか。どうも印象が薄くて思い出せない。しかし同じクラスのはずだ。見たことがある。割とよく見る。たしか春とか秋とか冬とか、そんな名前だ。自分の『夏』とはかぶってない。 「藤堂さん、何でここにいるの?」 相手は自分の名前を知っている。 「…サッカー部の応援。彼氏、いるから」 「あ、そうなんだ」 焦ってきた焦ってきた。ここで名前を間違えたら二学期に顔を合わせたときに非常に気まずい。というよりも顔を合わせられない。どうしよう。 「あんた、何してんの?」 あんたで、あんたでいこう。これならまずは間違えない。 「ちょっとね、忘れ物があって」 「宿題とか?」 「うーん、そんなとこ」 言いたくないことなら干渉はしない。サッカー部の勝利の雄叫びがグラウンドに響く。楽しそうだ。彼氏は応援に来いと言った分際でギャラリーに目も向けない。これでは夏がいてもいなくても同じだ。ああ結局そういうつもりなのか、と納得してしまえば会いに行ってやろうという気持ちは霧散した。面倒くさい。 「藤堂さんは、帰らないの?」 「帰るわよ。もうちょっとしたら」 クラスメイトその一もしくはあんたを振り返ると、彼の手には大きな黒いボストンバッグと、それから教科書があった。書いてある名前が読み取れた。『渡辺』そう、彼の名前は渡辺春樹だ。 歯に詰まっていたキャラメルがとれたような爽快感。いい感じだ、夏は思う。 「ねえ渡辺、キャラメル持ってない?」 「持ってないよ、甘いものは」 「あっそ」 夏は窓を閉めて鍵をかけた。もう帰ろう。気分も少しは良くなった。 「ねえ藤堂さん」 その声がやけに近くに聞こえて、この野郎と思った。実際、口に出そうとした。 「何で、ここにいるの」 最初は手首だった。渡辺は夏の右手首をつかんで後ろから腹に手を回す。おもわず左手で渡辺の手をひっかいた。 「痛いよ」 「じゃあ離しなさいよ!何してんのあんた!」 渡辺の息が耳にかかる首にかかる。髪の毛一本一本の隙間を縫って、頭皮に届く。 「だきしめてる」 渡辺の声が耳にかかる首にかかる。頭の中をすり抜けて脳みそに届いて、気づく。 「馬鹿じゃないの」 唖然とした。 それからの渡辺は迅速だった。夏の右手首に手錠をかけて片方は手近なところにあった机の脚につなぐ。片手の自由が利かないところに丸めたタオルを口に詰め込まれる。あとは左手を拘束して、足の間に右足をねじ込んで完全に閉じることができないようにした。 渡辺は迅速だった。これがはじめてではないのではと夏が確信するくらいに。 そして渡辺は戸惑わなかった。夏のスカートをめくりあげてショーツをずり下げる。生理用なのは一目で判るはずだ。そこから血が流れていることも、もちろん一目で。 夏は高をくくっていた。からだをひねって手錠に繋がれた机をがたがたと揺らしながら、声の出ない口から声を絞り出して助けを呼ぼうとしながら、どうせ男子高校生がこの有様を見たら引くだろうと。これ以上は無理だろうと思っていた。それが間違いだった。 渡辺はためらわなかった。股間に手を伸ばして触って膣に指を入れる。爪の間が赤黒くなっていた。躊躇わなかった。気持ち悪かった。平然と自分のしたいようにした。最後は突っ込んで中で出した。 夏はずっと抵抗しようとした。抵抗した。ねじ伏せられた。 そんなことがあってから二日目、今日も渡辺は夏の上にいる。 そうはいってもずっと上に乗っかって犯しているわけではない。時折、夏が寝ているときにふらふらとどこかに出かけている。濡らしたタオルを持ってきて体を拭いてくれるときもある。夏の太ももには血であるとか精液であるとか、そういうどろどろしたものがこびりついていてなかなかとれない。それを渡辺はこすってきれいにしようとする。あまりに強くすりすぎて赤くなっていたり、痛くて目が覚めたりするので夏はそれを知っている。拭いてくれるのはともかく内出血するまでやるのは異常だ。渡辺は病的に夏をきれいにしようとする。 だから夏は二日も教室の机の下で寝ているけれど、そこまで汚らしくはない。けれどしていることはセックスだし避妊もしてないし(生理中だから妊娠はしないけれど病気になる恐れは十分にある)拭いているだけだから切ない。女の生活を知らない渡辺には生理用品もよくわからないようで、夏の生理の血は垂れ流しになっている。それを渡辺が拭ったり舐めたりしている。気持ち悪くならないのだろうかと夏はいつも思って、それを渡辺に尋ねると、平気、と、あまり平気そうじゃない声が聞こえた。夏の股間に顔をうずめながらだから声がくぐもっている。 「俺ね、宇宙人なんだよ」 「は?」 「宇宙人」 「宇宙人は血を飲むの?」 「肉を食べる。だから夏さんのこれが食料」 「きもちわるい」 「夏さんだって肉を食べるでしょ。鶏肉とか豚肉とか牛肉とか。それと一緒だよ」 「でもきもちわるい」 渡辺は真剣そうだった。それが嘘だなんてわかりきったことだけれど、夏はなんとなく信じてみようかと思った。 「どこの星から来たの?」 「遠く。白鳥座の近くの星」 「ふうん」 「地球に似てる?」 「似ても似つかないよ。俺たちの星には資源がないから、知能を持つ生命体は必死になるんだ。だから技術はある。人間なんかよりもよっぽど頭を使ってて、よっぽど体も使ってる。強い生き物になる」 「その星では人を食べるの?」 「肉を食べるんだ。食べられるものは食べないと生きていけない。けど、資源はなくても技術があるから、生きていける。ある程度の年になると宇宙に出るんだ。それで、どこか適当に、暮らせそうな星に降りて、そこに住んでいる生き物のように見せかけて暮らしていく」 かっこうの託卵を思い出した。 テレビか何かで見たことがある。かっこうは自分の卵をもずやほおじろの巣に産み、先に孵化したかっこうの雛は巣の持ち主の卵や雛を追い出してしまって、自分だけを育てさせる。巣の持ち主は自分よりも大きなかっこうの雛を必死で育てるのだ。まさか自分の子どもではないなどと、考えもせず。 「宇宙人はセックスするの」 「今してたじゃん」 「…何でするの?」 「さあ、なんとなく。してみたくなったし。忘れられたくないから」 「バカじゃないの」 「うん。そうだね。ねえ、生理っていつ終わるの」 「まだ先よ」 今日で3日目。初めにくらべて出血はだいぶ少なくなったけれど。 「そうか」 渡辺は膣の中にやわらかな舌を差し込んで出てくるもの一切を舐めとっていく。血だろうが愛液だろうが自分の出した精液だろうが関係ないようだった。 「夏さん、俺のこと嫌い?」 「だいっきらい」 そう言うと渡辺はうれしそうにする。とてもとてもうれしそうに。夏はそれが理解できなくていつも泣きたくなるけれど、それは絶対に渡辺には言わない。 三日目になると、渡辺は夏の傍から離れようとしなくなった。 「もういい加減暑っ苦しいんだけど」 今までのように無理やり夏を犯すわけでもなく、ただ夏を背中から抱きしめて横たわる。夏としては正直うざったい。そして暑い。汗が背中をつうっと垂れていくのに気がついた。それが渡辺の汗か夏の汗か、もうわからない。 「こうしてたらさあ、どろどろに溶けて無くなったりしないかな」 しない。それは絶対にない。 夏はとっさに思ったけれどそれは言わなかった。渡辺は、溶けてしまいたいと思っているようだったから。 「夏さんと二人でね、他にどこにも行けなくなる。故郷の星にも帰れない。夏さんも、家に帰らない。ずっとこの狭くて汚い机の下で、溶けて無くなって二学期になったら当然みたいに登校するみんなに踏まれて」 「…踏まれるのは痛いから、嫌だわ」 このままどこかにいなくなりたいと渡辺は言っていた。それを夏は拒絶しなかった。 「夏さん俺のこと嫌いじゃなかったの」 「だいっきらい」 やっぱり渡辺はうれしそうに笑う。顔は見えなかったけれど雰囲気でわかった。 「何であんたそんな風なのよ。マゾ?嫌われてうれしいの?」 「いやだって、夏さんは本当に俺のことが嫌いなんだなあと思って」 段々と日差しが強くなってきた。もうすぐ昼なのだろうか。今日は朝から抱きしめられっぱなしだった。裸でホコリまみれで抱き合うだなんて彼氏ともしたことがなかったし、する気もない。 「嫌いだとうれしいの」 「うん。そしたら、夏さんは俺のことを忘れられない」 振り返ろうとしたけれどそれは渡辺に阻まれた。 「人間の一番強い感情ってね、俺は憎悪だと思うんだ。愛は二の次」 「だからこんなことしたの」 「そう。まさか夏さんとあんな風に会うだなんて思ってなかったから驚いたけど。チャンスだったから」 「あたしのことが嫌いだったの」 「そうだね」 「何で」 「何でかな。わかんないや」 「嫌いなら離せばいいじゃない」 「そうだね」 「離して」 「それも嫌だ」 「もう離して」 「嫌なんだよ夏さん」 「じゃあ好きになって」 夏を抱きしめる腕の力が強くなった。ぎゅうぎゅうと、夏の体を締め付ける。 「嫌いだったって言ったじゃん」 「過去形じゃない。好きになって」 「そしたらどうするの」 渡辺の声は固かった。耳元に直接降ってくる声は暑くて。それこそ今にも溶けそうで。 「手酷く捨ててやるのよ」 自分にこんなことをしておいてタダで帰れるなんて思ってもらいたくない。被害者は夏だ。そして加害者は渡辺だ。それは誰がどう見ても明白なのに。 渡辺は夏を抱きしめる腕を解いた。風がすうすうと通り抜けて涼しい。今までがどれほど暑かったのかがよくわかる。 「…渡辺?」 「俺ね、俺、夏さんのそういうところは死ぬほど好きだよ」 渡辺は思わず、といったように噴出して、腹を抱えて笑っている。 「バ…バカにしてんの!」 「してないしてない」 渡辺は涙を拭いながら夏にタオルを渡す。泣くほど笑いやがって。 「ねえ夏さん」 渡辺は夏の額にキスをする。三日間。三日間散々抱かれ続けてこんなこと初めてされた。 「俺はね、夏さんのまっすぐなところが死ぬほど嫌いだったよ」 額に続いて、頬、それからまぶた。 「あんたに好かれたくなんかないわ」 「だろうね」 最後に唇。 このまま唇を噛み切ることもできたけれど夏はそうしなかった。どのくらいの力加減でそれが可能なのかもわからなかったし、大体のことはもうされている。今更だ。今更、キスの一つや二つで騒ぐこともない。 最初は啄ばむようなキスを何度も繰り返して、どんどん深くなっていく。渡辺の舌が夏の口の中に入っていって、歯列を割って舌を誘い出す。慣れてるなあ、と夏は思う。流されることが気持ちよくなるくらい、渡辺はキスがうまかった。 「でも俺は夏さんが好きだったよ」 それも過去形になっていることに気づいたのはずっと後になってからだった。 その後今度は至極ノーマルなセックスをして、夏はいつの間にか寝てしまっていた。 そこには夏以外の誰もいなかった。渡辺の荷物も手錠もすべて消えている。裸の夏と汗のにおいのするタオルと夏の荷物だけがそこにあった。 夏は渡辺が逃げたのだとなんとなく悟った。自分から始めておいてやり逃げとはとんでもないとは思ったけれど、再び渡辺に会うつもりは無かった。無理だ。もう、絶対。顔を合わせてもどうすればいいかわからないし、もしかしたら汚く罵ってしまうかもしれない。宇宙人だなんて嘘は信じないけれど、何か事情がありそうな感じでもあった。深く関わりあうつもりはない。そこまで優しくしてやる義理はないのだ。 ずっと手錠がはまっていた手首には赤く擦れたような傷がついていた。赤いブレスレットをはめているようにきれいだったのでそれだけは少し気に入った。 夏休みが終わる前に彼氏とは別れた。 三日も連絡がとれなかったことで浮気をしたと勘違いされたのだ。否定はできないので黙っていた。どうせ体を見られたら終わりだ。しかし別れた次の日には違う女を連れていたと聞いたから、人のことは言えない。恋愛なんて肉欲だ。本能だ。ココロとカラダは別なのだ。 二学期になって登校するとすっかり教室はいつも通りで、渡辺の机をちらりと見るとそこには誰もいなかった。ホームルームが始まって担任が渡辺は転校したと言っていた。教室は動揺していたけれど悲しんではいなかった。こうなるために渡辺は埋没していたことにようやく気づいた。 赤いブレスレットがどんどん薄くなっていって消えてしまったときだけ夏は泣いた。涙が一筋流れて消えた。 |
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