最期




 私の熱をすべて譲って、
 私の代わりにあなたが生きて


 真っ白な病室は、ベッドに横たわる男に比べてずいぶん明るかった。
 彼は眠っている。いや、気絶している。どちらでもいい。とりあえず一応生きている。
 顔はよく見えない。枕元に、私にはとても理解できないような機械がたくさんある。彼はそれにつながれているのだ。最期の悪あがきのような、役立たずの機械たち。
 顔が見えないことは不安でも何でもなかった。むしろ喜ばしいくらいだ。つい昨日までと様変わりしすぎた彼の顔を見なくて済んだことは、きっと私にとって幸運なのだ。
 だから私は彼の顔は見ない。絶対に見ない。
 そこで突っ立っていてもしょうがなかったから、手近な椅子に腰掛け、布団の中に両手を突っ込む。
 ――生温い足。
 背筋がゾクゾクする。
 その時になって、初めて恐ろしくなった。
 人が一人いなくなることに恐怖を感じた。
 何でこんなに冷たいの。
 凍えるような冷たさではなくて、生温いお湯のような熱。そこにあったのはそれだ。ぞっとした。これが本当に人間か。そして、あまりにも細い足。私が知る限り、彼が歩いている所は見たことがなかった。歩けなかったのだ。
 それほど意識したこともなかったこの両足は、これほどまでに細かっただろうか。
 どんどん冷たくなってゆく気がする。それがひたすらに怖かった。手を離すことさえ恐ろしい。このまま手を離したら、それこそすべて体温なんかなくなってしまう。そう思った。
 口の中が乾く。何か言おうと思っても、言葉は出ない。泣きそうになったけれど、ここでだけは泣くわけにはいかないと思った。
 足をさする。
 少しでも温かくなるように、少しでも昨日までのように温かくなってくれるように、機械が間違いを起こしてしまうかもしれないと恐怖を感じるほどに、ただ、触れた。どんな形でもいいから、少しだけでいいから、目を覚まして欲しかった。
 何故彼がこんなに冷たくて、私は温かいままなのか。いらない。こんなものいらない。体温なんかいらない。熱なんかいらない。命なんかいらない。
 このままこの熱をすべて奪ってしまって、私の代わりにあなたが生きて。
 こんなものいらないから、あなたにあげます。生きててくれればそれでいいから、死ななければそれでいいから、どんな形でも、そこに体を持って、温かさを持って、いてくれればそれでいいから。行かないで。行っちゃやだ。行かないで行かないで死なないで。
 吸い付くように、足から手の平が離れない。私の熱でそこだけ少し温かくなるけれど、あとは変わらず、どんどん冷たくなるばかりで。
 ごめんなさい。謝りたいことがたくさんあった。酷いことをしてしまった。
 なのに、私は。
 どんなときも笑っていた彼に対して、私は。
『あたしあなたのこと嫌いなの』
 いっそこっちが悲しくなるくらいの苦笑いで、彼は。
『ごめん』
 そこは謝る所じゃないでしょ?ああもう、バカじゃないの。
 そんなことどうでもよかった。嫌なんて言ってごめんなさい。本当は嬉しかったの。嫌いなんて言ってごめんなさい。本当は大好きなの。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 ねえ何か言って。声が聞きたいの。
 ねえ死なないで。私の熱を全部あげるわ。
 ねえここにいて。
 ―――ここにいて。


 私は泣くことで人から見える自分を美化し、あなたは私に死をもってそれを知らしめた。
 そのことに気づいたのは、あなたが消えた午前4時。


 それでもやっぱり恨んでいます。
 私はあなたを想って泣きました。
 もっと私を見て欲しかった。
 甘やかすとき頭を撫でてくれる、
 その優しい手が大好きでした。

 あなたは最期、
 何も言わずに燃え尽きた。



 




 *POSTSCRIPT*
 以前卑怯なことをした。
 そしてとても痛いことをした。
 生きることは忘れることだけれど、覚えていなくてはならないことも少しだけある。



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