さっちゃん




 さっちゃんは僕の幼馴染で、いつもどこかぼうっとしたところのある人だった。
「たいくつー」
「じゃあ帰れば」
 さっちゃんは受験生の僕の邪魔をしにやってきた。人のベッドを占領しては退屈だとわめく。心の底から迷惑だ。
「いやよ。せっかく来たのに」
 退屈だとわめく割に帰れと言うと帰らない。家に帰るのが嫌なわけではないのに、何故か帰りたがらない。
「ねえ、そんなのやめちゃいなさいよ」
「受験生に勉強するななんてよく言えるね」
「受験生も息抜きは必要よ」
「息抜きすぎて進学できなかったの、さっちゃん」
「うるっさいわね!頭が悪かったのよ!」
 さっちゃんはぼうっとしてるところがあるくせにワガママだ。
「あーあ、叫んだら疲れちゃった」
 そして彼女はベッドを占拠したまま眠ってしまう。この傍若無人っぷりは他の誰にも真似ができないに違いない。とりあえず僕は健全なる高校三年生の部屋で余裕ぶっこいて寝る23歳の存在を他に知らない。
 さっちゃんは魔女だ。
 夜な夜な若い男の家にやってきてはそそのかしてたぶらかそうとする魔女だ。
 眠る彼女を盗み見ると、ちっとも楽しそうじゃなかった。
「ねえ」
 狸寝入りか。何だか少しだけいけないことをした気分になる。何もしてないのに。
「何?」
「あたしね、赤ちゃんが欲しいの」
「…本気で?」
「そう、本気で」
 さっちゃんはいつも唐突で理解ができない人だったから、急にそんなことを言われてもそれはただの思いつきなのだろうということが容易にわかった。
「じゃあ作れば?相手くらいいるだろ」
「…もうちょっと動揺しなさいよ」
 眉根を寄せて笑うその顔はとても不自然だった。
「動揺って言ったって。子供欲しいのはさっちゃんなんだし」
「自分に言われてるんだから作ってくれって言ってるのかもしれない何俺誘われちゃってんのくらい思いなさいよ」
「え、誘ってたの今の」
「そんなわけないじゃない」
 僕は溜息をついた。さっちゃんは理不尽なのだ。
「あたし結婚するの」
「へえ」
「驚けよ」
「いや、もうそういう歳かと思って」
「そう、もうそういう歳」
 驚かなかったというと嘘になる。けれど僕には変化が顔に出にくいところが少しだけ、ある。
「じゃあ子供も作れば。たくさん」
「一人でいいのよ。そしたらめいっぱい可愛がるの。これでもかってくらい」
「旦那は?」
「それなりにかまってあげる」
「ひでえ」
「あたしは子供が欲しいの」
 それじゃあ旦那の意味がないじゃないかとも思ったが、さっちゃんは本当に子供が欲しいんだろうと思った。単純に。
「だから結婚するわけじゃないけど、手段も目的も一緒になっちゃえば全部同じ気がしてきちゃったのよ」
 かなり違うと思う。
 さっちゃん、それは何か惑わされてるよ。
 言ってやろうかとも思ったけれど、左手の薬指にはめてある指輪を見てそんな気も失せた。ここで口出しできることなんか僕には一つもない。
「じゃあさっちゃん、もうここに来ない方がいいんじゃない?」
 さっちゃんの方は向かずに、ノートを凝視したままで僕は言った。
「どうして」
「だって、旦那に悪いし。俺だったら自分の婚約者が幼馴染とはいえ男の部屋に入り浸ってるなんて嫌だよ」
「…そういうもんかしら」
「そういうもん」
 さっちゃんの声があんまりにあっけらかんとしていたからとてもショックだった。けれどそんなもの見せるわけにはいかない。実はそのとき目の端に少しだけ涙が溜まってたりしたことも含めて、すべて。
「わかった。じゃあ、もう来ない」
 言わなければ良かったと思ったのはそれから一時間後。


 それから一時間だけ勉強して、夜食を買いにコンビニに行くことにした。最近のコンビニは楽しい。楽しいというか、品揃えがあまりに豊富だ。無いものは無いんじゃないかとさえ思えてくる。これは喜ばしいことなのかどうなのか、いまいち僕には実感がわかないところがあるのだが、食べ物の種類が豊富なのは良いことだと思う。非常に思う。
 行く途中で事故があったらしく、パトカーと救急車のサイレンが鳴り響いていた。あれも必要なものではあるけれど騒音だ。そんなことを思いながら通りすがった。
 コンビニに着いて、初めて家から電話がかかってきていることに気づいた。
「もしもし?」
『ああ、健一?さっきまでうちに居た向かいのさっちゃんが大変なのよ!』
 どうせあの結婚の話なのだろうなと思う。母はゴシップが好きだ。身近なものも遠いものも大昔のものも最近のものも。
「あー知ってる。どうせ結婚するとかその話…」
『さっきコンビニに行く途中で事故にあったらしいのよ。重体だか即死だかわからないけど、助からないだろうって…」

 は?

 電話をポケットにねじ込んでコンビニを出た。
 夜の風は中途半端に冷たくて変なにおいがした。事故現場が近いからだ。
 コンビニが近いせいで人も多い。邪魔だった。すべてが邪魔だった。
 野次馬の人だかりの一番後ろでその中心を覗いた。もうそこにはひしゃげた車と警察官と暗くて見えない血とパトカーくらいしかなかった。救急車が無いのは怪我人をすべて搬送した後だからなのだろう。
 どこの病院に行ったのか、家に帰った方が確実だと思ってとりあえずまた走って家に帰った。  こんなに夜が恐ろしいと思ったのは初めてだった。
 今日、ついさっき、多分ほんの十五分前ほどにさっちゃんがここで血を流した。たくさん流した。一時間前には僕のベッドの上に寝そべっていたさっちゃんが。あの白い足があの長い髪があの皮肉気な目がもしかしたら失われているのかもしれない。
 それは奇しくも気分を高揚させることになった。嬉しいわけじゃない。嬉しいわけではないけれど、気分だけは素晴らしく盛り上がった。さっちゃんがさっちゃんがさっちゃんが。
「さっちゃんは!?」
 家に駆け込むと母がすぐに出てきて今は市立病院にいるらしいと言った。さっちゃんの家のことはどういうわけか僕の家に任されていた。
「病院には行かないでね。わたしたちが出るところじゃないのよ」
 母は理性的な人だった。自分の子供が事故にあったわけではないから当然だ。
「わかってるよ」
 そう吐き捨てるしかできなかった自分が愚かしい。
 ああ、本当に、本当にもう来るななんて言わなければ良かった。あそこで帰したりしなければ良かった。そうすればさっちゃんは今もここにいたかもしれない。いなくても、今頃向かいの自分の部屋で悠々と雑誌でも読んで、例の婚約者に電話でもしたかもしれない。

 朝が来るまでは、あと十三時間。




 




 *POSTSCRIPT*
 昔考えて放置していた話を書いてみました。今書くと色々変わってしまいます。



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