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 魔法が使えたらいい。
 錬金術なんて犠牲を必要とするものでなくて、完璧に奇跡を起こすはずの魔法が。
 こちらの世界の人々は、それでも錬金術を魔法と言うが、実際は別物だ。何の代償もなく魔物を召喚したり炎を起こしたり闇を操ったり。そんなものが存在するなら、自分は。


「……さん」
 どこか遠くで声がした。目覚めるのは憂鬱だ。やらねばならぬことがあるからなおさら。
「…兄さん!」
 目が覚めた時とびこんできたのは弟の顔だった。その顔自体は見慣れていたものの、それが自分を兄と呼ぶのに違和感を覚える。ミュンヘンで、彼とは長く共に居過ぎたのかもしれない。
 アルフォンス、お前がいないのに違和感を覚えるなんて思ってもみなかったよ。
「…何だ、アルか」
 エドワードは一瞬目を開くが、その直後にまた閉じる。
「何だじゃないよ兄さん!今日はもっと東の方まで行くんでしょ?早く支度しないと間に合わないよ」
「…ああ…」
「あんまり寝ぼけてると兄さんの朝ご飯も食べちゃうよ?僕はもう食べたんだから」
「んー…じゃあ、起きるか」
 体を起こして頭をかくと、更に眠くなった。そういうものだ。体のシステムにはそれほど興味はない。
(あいつは違うだろうけど)
 思いだすのは過去の憧憬。あんなにも近くにいた、あんなにも触れていた、あんなにもあたたかだっか彼女とはもう二度と会えない。会えたとしても――
「…まったくの別人だ」
 彼女を一人で残したことは一生忘れない。
 間違いなく、一生悔やむ。
 腕の伸ばして右腕を見る。機械鎧は健在だ。こちらに来てもこの腕が動くことが少しだけ信じられなかったが、考えてみればこれは科学技術の結晶だ。不思議なことなんて何一つない。
 着替えて食卓に行くとアルフォンスが憮然として座っていた。
「アル、おはよう」
「兄さんおはよう。今日は随分寝起き悪いね」
「あー…夢見が悪かった。悪すぎた」
「なのに寝てたの?」
「だから寝てたの」
 アルはわけがわからないと文句を言う。自分は黙ってパンに手を伸ばす。ライ麦の酸味の強いパンは、正直得意ではない。
「我慢か…」
「どうしたの?」
「最近我慢してばっかだよな、と思って」
「そうなの?僕はそうでもないけど」
「お前順応性高いよな」
「うらやましい?」
「いや、安心した」
 きっと、いつ、何があってもアルは希望を持って進むことができる。安心だ。


 夜にノーアが部屋にやってきた。これからのことを聞きたいと言って。彼女は旅支度を済ませていた。この後ここを発つと、戸惑いながら言っていた。
「もう少しここに落着いたっていいんじゃないか?」
「エド、わたしはジプシーよ。どんなに酷い扱いを受けても結局旅を続けてしまうの。落着きたいのも本当、故郷が欲しいのも本当だけれど…どうしてかしら。どこかに行かなければ気が済まなくて…」
「それはただの慣れだ、多分…別に、俺たちに遠慮しなくたっていいんだぜ」
「遠慮なんかじゃないわ」
 目で促すと彼女はベッドに座った。
「ねえ、どうして戻ってきたの?」
 自分がここに戻ってこなかったら彼女はどうなっていただろう。おそらく扉はどこに繋がっているかわからないような状態になっただろう。そして多くの人が奇跡を求めて死ぬだろう。代償は増え続けるばかりだ。そんなことになってはいけなかった。それは許されないことだった。
「あなたはいつも自分のことは二の次ね。それは美徳かもしれないけど馬鹿だわ。だからあなたの周りの人は誰一人しあわせになんかなれない」
 あのままあちらに残ったらどうなっていただろう。きっと自分は大佐が扉を壊すのを手伝って、後始末をして忙殺されて、でもそこにはきっと今と同じにアルが居て、それからウィンリィも居て。リゼンブールでばっちゃんも一緒に4人で暮らしていただろう。そしてしあわせに暮らしましたとさ。どんな苦労があったとしても、しあわせな御伽噺のラストのように、しあわせに。
「あなたと居たらわたしもしあわせになれない」
 ノーアはエドワードの背中に縋りつく。涙がシャツに染みるのを肩で感じた。
「好きな人を置いてきてまで大事なものがこんなところにあるの?」
 エドワードは目を見開いて、振り返る。
「『ウィンリィ』って誰」
「…どうして…」
「前にあなたが寝言で言ってたわ。アルにも聞いたの。あなたたちの幼なじみ」
 顔を伏せているから彼女の表情が掴めない。少しだけ恐ろしくなった。
「ねえ、身代わりでもいいのって言ったら、抱いてくれる?」



(夢見の悪さの原因は絶対にあれだ。間違いない。あれしかない)
「どうしたのさ兄さん」
「いいや何でも。…あー、アル。今日は東はやめだ。西に行くぞ西に」
「ええ?何でさ!」
(ノーアが東に旅立ったからだなんてことは、絶対に言えない)



 息が詰まった。
 少しの間だけ、呼吸さえも忘れてしまった。脂汗がじんわりと、次々に浮かぶ。どうしたらいいのかわからないだなんて、情けない。
「……エド」
「…身代わりでもいいなんて、言うな」
 エドワードは立ち上がる。これ以上ノーアに向き合うことはできなかった。
「身代わりで満足する奴なんか、この世にはいないんだ」
 それは自分が一番良く知っている。
 アルフォンス・ハイデリヒと出会った時の自分。
 共に暮らすことで弟の身代わりを求めた自分。
 一度もまともに彼を見ることのできなかった自分。
「エド」
「ごめん」
「エドワード」
「…ごめん、ノーア」
 声が震えていた。泣いていたわけではない。泣いていたわけではなかったけれど、震えた。きっと寒さのせいだったのだ。いつの間にか指先が冷たくて、感覚もなくなっていたから分かる。きっとそうに違いない。
「…ごめんなさい、エド」
 ノーアの声も震えていた。怖くて彼女の顔を見ることができなかったせいで、泣いていたかどうかまではわからなかった。


 ずっと我慢をしている。
 誰かを身代わりにすることなんて簡単だ。きっといつか、『ウィンリィ』にも出会うかもしれない。けれどそれはけして自分の知っているウィンリィではないのだ。もう二度と会えない。もう二度と会わない。選択したのは自分だ。アルフォンスにウィンリィのことを言われたときだけ、決意は揺らいだ。抱き締められたあの温もりだけを持って行くつもりだった。それだけで充分だとは言わない。言えない。けれどそれだけで我慢する。
 本当は今すぐにでも会いたい。抱き締めたい。「ただいま」が言いたい。
 魔法が使えたらいい。
 もし魔法が使えたら、あと一度だけ、せめて一度だけ扉を開いて、彼女に会いにいく。


 扉を開いて、エス、アイ、ジー、エヌ、アルファベットを砂に書いてみたって変わりやしない。戻りやしない。
 エス、アイ、ジー、エヌ。合図ならいくらでも送るさ。



 



 *POSTSCRIPT*
 シャンバラを見てこれだけは書きたいと思ったものの一つです。エドは後悔をするといい。きっと、ずっと我慢をしている。



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