あなたのすべて




 そこに目に見える束縛は一つもなかった。
 彼女は逃げようと思えばいくらでも逃げることはできたのだ。しかしそれをけしてしないだろうということは判っていた。だからこそそれを利用したのだ。それを利用したのだ。
「・・・痛い?」
 彼女はけして声をあげないだろうということも判っていた。首筋に覗く傷痕。こんなものをその体につけたのはもう随分と前のことだ。あの時ほど自分の命が脅かされたことはなかった。彼女がこの傷を負って倒れているのを見たとき、この心臓が止まりそうになった。誇張でもなんでもなく、この心臓は一瞬だけ止まった。そして助かったということを知ったときには涙が零れた。とめどなく零れた。
 ――どうして泣くんですか。
 ――君がいなくなると思った。
 ――どうして。
 ――“死”とは取り返しのつかないことなのだよ。
 ――私は貴方のお傍を離れません。
 けして、離れない。そう誓った。けれどそれがどこまで信用できるというのか。戦場という地に赴くことがある限り、安心などできるはずもなく。
「痛かったら言ってくれ。加減がわからない」
 握り締めた手にくちづける。
 彼女はもう声をあげない。
 彼女の力が不必要であったわけではけしてない。ただ、彼女が離れていかないという保障はどこにもなかった。その場の口約束で安心できるほど子供でもなかった。彼女を信用しきることができる程度の絆は、もうとうに越えていた。最終的に欲するのはより大きな安堵だ。
 手を繋いで。その金色の髪に触れてこめかみにくちづける。
「リザ」
 名前で呼ぶことのできる日が来ると思ったことはなかった。不思議だ。
「リザ」
 ここにいてくれればいい。
 けれどそれだけでは足りない。絶対的に足りない。
 ただこの温もりがここにあるだけではいけないのだ。
「何が足りないんだと思う?」
 額にくちづける。
 そして唇。歯列を割って、舌を絡ませる。まだ彼女は生きている。
 首筋を舐め上げて、腿に手を這わせる。
 誰に見られることもないように部屋は完全に密室にした。これで逃げられない。これで離れない。これで失わない。
「リザ」
 彼女は声をあげない。
 まだこの体は温かい。
 柔らかな胸。
 流れる金色。
 細い四肢。
 闇に浮かぶ真白な腹。
「あなたはなにを求めるのですか」
 腐るほど見つめ続けくちづけたいと何度も願い最終的に無理矢理に奪ってしまった薄い唇で、彼女は声をあげる。
 色気も何もない言葉でもなんでもよかった。
 乱さない息。
 紅潮することを忘れた頬。
 長く伸びた女の爪。
 消える鳶色。
 あのころと違うすべて。
「まだ足りないんだ」
 君のすべて。




 




 *POSTSCRIPT*
 病んだ監禁モノが書きたいと言い出して結局書きました。もっと痛い感じにしたかったのですがそうならなかった。わざわざ軌道修正するのも難かなと思いましてそのままに。
 あー病んだ人というのはどうにもロマンチストな気がします。自分の理想と現実が噛み合っていないと嫌だとか。夢見ることにちょっと心を傾けすぎというか。
 だからといってそんなおろかでやさしく痛いひとたちを描く力量はあたしに無いのですけども。



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