水蜜桃花






「モモ」
 彼が呼ぶところのあたしの名前は『モモ』といった。
 目を閉じて、暗闇の中で彼の低めの声だけが耳の中に滑り込んでくる感覚が好きだ。その時、あたしの耳には暗闇の外に溢れているうるさいノイズの入り込む余地はまったくない。
「モモ」
 目を開けてみる。そこにはきっと彼の顔が……無い。
「タマ?」
 目の前には誰もいない。さっきまで確かにあいつがあたしを呼ぶ声がしたというのに。ああまたか、そう思って後ろを振り返る。
「そういつもいつも引っかかると思ったら大間違いよ。タマはもうちょっと学習能力を身につけるべきだわ」
「引っかかったくせに」
 あたしの呼ぶところの彼の名前は『タマ』という。
 タマは、毎日毎日あたしに同じイタズラをする。そしてあたしは毎日毎日そのイタズラに引っかかってあげるのだ。
「違うわよ」
「あっそ。肉まん食う?」
「食う」
 がさがさと音を立てて、タマはコンビニの袋から肉まんを取り出す。
 寒い日の肉まんは格別だと思う。すごく安心するから。
「寒いねー」
「あったかくなっただろ」
「ちょっとだけ」
 肉まんはとても熱いから、手だけが真っ赤に火傷するんじゃないかと心配になる。その心配はまったくの杞憂であることもあたしはよく知っているのだけど。
「今日はどこに行く?」
「どこでも」
 あたしたちは旅人だ。


 出会いは四ヶ月前に遡る。
 あたしは好きだった人――きっと一応恋人と言える関係だった。一応というのはあたしは彼が好きだったけど彼はあたしのことを好きじゃなかったかもしれないからだ――に振られて、やっぱり当然だけど悲しくて、悲しくて悲しくて悔しくて仕方がなくて、やけ酒をしてふらふらしながら町をさ迷っている時だった。
「モモ!」
 うるせえな何だよこいつと思った瞬間、後ろから誰かに飛びつかれた。
「ちょっ……誰!?」
 飛びつかれた拍子に口の中を噛んだ。ただでさえ覚めそうになった酔いが更にすっきり覚めて、頭がはっきりしてくる。
 誰だこいつ。
「きゃああああっちょっとやだ何よあんたーっ!離せ!寄るな触るな痴漢!変質者!ちょっと誰か!!助けておまわりさーんっ!」
 口を塞がれる。どうやらこの頭おかしい人は騒がれるのがキライらしい。そういう問題でもなくて、実はただの強姦魔なのだろうか。その方が断然嫌だけど。
「モモ」
 あたしの名前洋子っていうんですけど。
 口が塞がれているから何も言えない。こいつも聞く気はないらしいので、あたしは抵抗するのを諦めた。何かする気がさっぱり失せた。
 理由は男に振られた直後だったから。こうなったらどうなってもいいような気分になってしまっていたのだろう。今考えるとかなりの危険思考だ。
 茶色を通り越して金に近い髪。染めている割には傷んでないし柔らかい。口を塞いでいる力にもたいして力はこもっていない。逃げようと思えばいくらでも逃げられた。
 それでも。
 一度だけこいつの『モモ』になってやってもいいかなと思った。

 夏の初めの蒸し暑い夜、このおかしな空気にあたしは惑わされた。

 ――何であたしのことモモって呼んだの?
 ――桃の匂いがしたから。
 ――じゃああたしもあんたに名前つけてあげる。
 ――何?
 ――タマ。


 全体的に色素が薄いところとか、ふらふらほわほわしているところがどうにも野良猫みたいだと思った。
「最近のモモは桃の匂いがしないな」
「冬だから桃食べてないの」
「ふうん。じゃあみかんに変えようか、名前」
「じゃああたしみかん食べないわ」
「モモ」
 彼はまるで子供を叱るようにあたしの名前を呼ぶ。子供なのはそっちなのに。
「なに」
「好きだよ」
 嘘つき。
「あたしもタマ好きよ」
 嘘つき。
 嘘つき。
 あたしたちは旅をしている。いつもいつも旅をしている。
 一日かけてどこかに行って、それからまたすぐに戻ってくる。安全だとわかった道を通り、慎重に慎重に。
 あたしたちは冒険好きだ。それと同時に臆病者だ。
「今日は今まで行ったこと無い所に行きたい」
「それいつも言ってるじゃない」
 手を繋いで、一歩一歩道を確かめながら歩く。二人でいたって怖いものは怖いし、辛いのは嫌だ。
「モモが生まれたところってどこ?」
「何で?」
「知りたいから」
 タマは常に唐突だ。話すときも歩くときも、手を繋ぐときも愛するときも。
「知ってたってつまんないわよ。何にもない田舎だから」
「でも山はあるだろ。川とか木とか」
「そりゃあるけど。あとは畑とか果樹園とか。空気と水だけはキレイ」
「空気がキレイか。いいな、そーゆーの」
 しみじみと、本当に嬉しそうにタマがそんなことを言うので、あたしは耳を疑った。
「いつからアウトドア派に転向したの?」
「最初からだよ」
 タマは常に嘘を吐く。この男の言うことはまず信用してはいけない。それがタマと旅をするようになって知った最初の事だった。
「タマが生まれたところはどこ?」
「行きたい?」
 タマはにっこりと笑った。
「絶対イヤ」
 あたしは思いっきり笑って言ってやる。
 タマはますます嬉しそうに、握った手に力を込めた。


 あたしの本業は大学生だ。都会に憧れて家を出てきたというとても一般的な大学生。仕送りが少なくてバイトしなきゃ大変で、だからといって欲しいものも我慢できないという本当に普通の学生生活を送っている。友達もいるし遊ぶ相手もいる。
「ようちゃん元気無い?」
「そうだねー、あんま食べてないからねー」
 机の上に頬を当てると冷たい。寒いけどこういう冷たさは好き。
「食べなよ。また金ないの?」
「ザッツラーイト」
 友達は優しい。気づいてくれるしわかってくれる。あたしが一人で空回りしてるだけ。タマとのことだって、考えてみれば尋常じゃない。
「バイト増やせば?」
「……増やす体力残ってればいいんだけどね」
 あたしは結構お金がかかる。考えられる理由は欲しいものを我慢できない性癖と、それから旅。
「遊びに行く体力はあるくせに」
 友達はタマのことを知らない。もちろん言えないし、言ってはいけない。
「癒されに行ってるの」
 タマと会って。どこかに行って。一歩だけ進む。
 モモって呼ばれて。タマって呼んで。手をつなぐ。
 それが今のところあたしのストレス解消法だ。
「まあいいけどね。最近付き合い悪いって言われてるよ」
 率直にどうもアリガトウ。
「そんな付き合い悪い奴にかまってくれるめぐみちゃんはきっと天使だね」
 あたしは顔を上げて、めぐみちゃんの顔を見る。ああもう、かわいいなこの子は。めぐみちゃんは優しい。あたしはただのバカ。
「次どうする?」
「帰るよ。何か力出ない。帰って休んでバイト行く。みんなにいつもごめんって言っといて」
「がんばってね」
 何も知らないくせに。何もできないくせに。
 友達は優しい。でも友達は役立たず。そしてあたしはただのバカ。

 気分悪い。
 あたしは下を向いてふらふらと歩きながら、コンビニにでも寄ろうかと考えた。家に食べるものが何も無いのだ。これは非常にやばい。いくら金が無くても、人は食べなければ死ぬのだ。何でここまで我慢してしまったんだろう。別に何も食べられないほど困窮していたわけではないのだから、自分の欲求に素直に従って食べればよかったのだ。
 コンビニで、桃の缶詰を買った。桃は一番好きな果物で、時期が来るといつも桃ばかり食べつづけてしまう。昔からのあたしの習性だ。だからタマもあたしをモモと名付けた。そのときから"もも"は一番大事なものに変わった。横断歩道を渡ろうと、顔を上げる。通りの向こうにタマがいた。
 あたしは、普段の日に会うのは初めてだな、とか呑気なことを考えていたんだと思う。
声をかけようかと悩んでいたところで、信号が青になって、気づいた。
 ――気づいてしまった。

 タマが横断歩道を歩いている。あたしは一歩も前に進むことができない。足が凍ってしまったかのように動かない。
 タマがあたしの横を通り過ぎる。もしかしたらあたしの事に気づいていないのかもしれない。人がたくさんいるから。



 雑踏。雑音。雑念。



 タマに会った。会ったというほどではなく、見かけただけだ。あたしの知らない、かわいい女の子と、腕組んで歩いてた。あたしのことなんか欠片も気づかず、笑って通り過ぎていった。

 鞄を放り出して、買ったばかりの桃の缶詰をゴミ箱に突っ込むと、一目散にベッドに突っ伏す。あたしはとりあえず枕に顔を押し付ける。泣きたいわけじゃない。泣きたいわけじゃないのだ。胃の中がぐるぐるする。キモチワルイ。
 何が悔しいんだろう。何が悲しいんだろう。タマは普通の人だった。やっぱりあたしと同じ普通の大学生っぽくて、普通に彼女がいて、普通に暮らしてて、それなりにバイトして、遊んで。いいじゃない。何が悪いの。タマだって人間じゃない。それが普通なのよ。
 あたしだって普通に学生やって普通に勉強して普通に遊んで。何で自分に許してることをタマには許せないの。不公平だ、不公平だよ。いいじゃない、いいじゃないか。
 タマがあたしの事を知ったらどう思うだろう。別な出会い方をしてたらどうだっただろう。あいつは無感動にあたしから離れていくに違いない。少しも笑わないで、あたしの横をすり抜けていくに違いない。きっとそういうことなのだ。
 あたしが欲しかったのは特別なもの。
 それは何でもよかったのだ、きっと。ただ暇が潰せて、なんとなくわくわくして、普通じゃないこと。普通じゃないこと。何でもいいから普通じゃないこと。
 あたしには両親が揃っていて家族がみんなそれなりに幸せで、学校行ってバイトして、遊んで眠って。それがきっと嫌だったのだ。何のドラマも無い生活が嫌だったのだ。そのためにタマを利用した。モモを利用した。
 幸福な人間は自分を不幸に仕立て上げようとする。
 平凡な人間は特別なことに憧れる。
 気づかなければよかったのに。少しだけ泣きたくなった。
 やっぱりあたしはただのバカだ。


 それから何日か過ぎて、週末になっても、あたしはタマと会わなかった。彼はずっと待っていたかもしれない。けれどあたしは裏切った。きっとこれからも会うことはないだろう。あたしはそのことにほんの少しだけ幸福の匂いを感じ取り、ほんの少しだけ嬉しくなる。
 あたしは相変わらず桃が好きだ。特別でもなんでもなく、果物として大好き。人は変わるというけれど、そう簡単に本質まで変わるものではないと思う。

 あたしは相変わらず時期になると桃ばかりを食べて、なんとなくタマを思い出す。
 自分勝手に放り出してしまった、理想の生活。





 




 *POSTSCRIPT*
 なんとなくだらだら書いてたら長くなってしまいちょっと困ったのだけれども。
 まあこういうのもいいかなーとか。とかとか。



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