十月十日




 潜水艦に乗り始めてから今まで、出たくないと思った航海がたった一度だけあった。
 それはまさに今だ。

 聡子からのおめでた報告はメールでだった。生まれたわけではないし、緊急性も低い。それで無線連絡は気が引けたのだろう。別に良かったのに、と今なら思う。けれど無線だったなら、きっとあのときのような気分にはならなかったはずだ。
 結婚して二年、子どもができなかったのは仕方のないことだとも言える。そもそも冬原は一年の大半海の底にいるのだ。今まではとにかくタイミングが悪かった。
 だから報せを受け取ったときは嬉しさよりも何よりも、まず衝撃だった。
『妊娠しました。今二ヶ月です。ちょっと調子が悪かったので病院に行ったらそう診断されました』
 二ヶ月でなかったら大変なことだ。前回の上陸はちょうど二ヶ月前である。
『もしかしたら今度帰ってきたときにはおなかが大きいかも。びっくりしないでね』
 びっくりする。びっくりするに決まっている。
 それから嬉しすぎて思いっきり抱きしめそうになるに決まっている。
 すぐに聡子に電話をする。電波が悪いだろうとか、うまく繋がらないかもしれないとか、頭の中を過ぎる問題点はいくつかあったけれどすべて無視した。
「聡子!メール見たよ!」
 開口一番これ。いつもの自分だったらありえない。
『あ、読んだ?すごい、今回タイミングよかったね。あのメール昨日送ったの』
 ぶつぶつ言葉も途切れて声も聞き取りにくかったけれど、そんなことはどうでもよかった。
『びっくりした?』
「した。いやー、驚いた。でもそれ以上に嬉しかったよ」
 本当は嘘だ。けれど聡子はふふふ、と嬉しそうに笑う。
「聡子、ほんとに、ありがとう」
 これは本当。少しだけ嘘を混ぜていることを、どうせ聡子は見抜いている。
『やだ、まだ生まれてもないのに。でもね、ハルももうお父さんよ』
 たまらなかった。聡子が今この手の届くところにいたらめちゃくちゃに抱きしめてキスをするのに。
 とにかく嬉しいと体に気をつけてを繰り返した。我ながら未だかつてないほど不器用な会話だったと思う。聡子は笑って、分かった、と言う。
 電話を切ってからじわじわとまた嬉しさと名残惜しさが迫ってくる。それはもう叫びだしそうなくらいだったので口元を手で押さえた。
 まず艦長に報告して出会った奴らにはのろけがてら報告した。中でも夏木には特に念入りにのろけてやった。最初のうちはめでたいだの言ってくれたが、途中から段々げんなりし始めた。どうせ夏木が幸せになれるのはもうすぐだ。芽はすくすくと予想外な形で育っている。今のうちに洗脳しても悪いことはない。
 上陸は報せを受け取ってから三ヶ月後だった。
 家に着いた途端聡子を抱き締めた。あまり力を入れないように、けれど聡子を感じることができるくらい。力加減が難しい。そのくらいは努力する。聡子の方がずっと大変だったに違いないのだ。
「おかえりなさい」
「…ただいま…」
 聡子は冬原の背中を軽く叩いて、顔を上げる。
「ほら、まずはお風呂でしょ」
「うん、その前にちょっとおなか触ってもいい?」
「いいよ」
 聡子の腹をそっと撫でながらここに自分の子どもがいると考えてみるけれど、思ったよりも膨らみの小さい腹に実感があまり沸かなかった。それを正直に告げると、そんなものかもね、と聡子は笑った。
「なんかこう、見たらすぐ父性に目覚めちゃったりするのかと思ってた」
「今までクジラの中にいたんだもの。今の段階はね、過程を見ないと実感できないわよ。いいの、今のうちの愛しい気持ちはお母さんの特権なんだから」
 そう言っておなかを撫でる聡子の顔はすっかりお母さんで、少しだけ、ほんの少しだけ、聡子を子どもにとられたような気がして嫉妬した。
 次の航海では宿題を出された。名前を考えてメールで報告。男の子と女の子、両方。
 残念ながら宿題は宿題にならなかった。実は妊娠が発覚してから毎日名前を考えていて、男の子でも女の子でも名前は『海』と決めていた。
 そのことを聡子にメールで伝えると、『ハルらしいね、採用!』と返ってきた。
 聡子はきっと、冬原が名前を海にちなんだものにすると予想していたのだろう。しかもそれを無条件で採用するつもりでいたのだろう。それは返信のすばやさで察することができたし、聡子は言葉の端々から真実を汲み取るのがうまい。
 好きだなあ、と思う。
 そういうところが、たまらなく好きだ。
 離れている間の時間も距離も飛び越えて、結婚してもう二年も経つのに日を追うごとに好きになる。
 聡子が妊娠してから二度目の航海は一ヶ月で終わった。今回は短期だ。そうなると、上陸の期間のことや次の航海を考えても、出産、立会いは絶望的になってくる。
 聡子のおなかは前回会ったときよりも大きくなっていた。
「不自由ない?大丈夫?」
「平気よ。そりゃあハルが居てくれるのが一番いいけど、けっこう実家に縋っちゃったりしてるし。ご近所もみんな事情知ってるから色々気を使ってくれてるし。これ、官舎のいいところよねえ」
「…でも俺はどこに居ても心配だよ。何でも一人でやろうと絶対しないように。いいから周りをどんどん巻き込むこと。後で俺が全部フォローするから」
「わかった。あたしも初めてで一人は不安だし」
「それこそ生まれるまで実家に帰ったら?そう遠くないし、おなかこれだけ大きくて一人は大変だろ、色々」
 聡子は少しだけ驚いたような顔をする。
「何?」
「いや、お母さんにもこの前同じこと言われて」
「あ、そうなの?何で帰らなかったの?別に連絡くれればそうしてもよかったのに」
 実際その方が安心だし、安全でもある。思わず口調が少し責める風になってしまった。
「だって、ここならハルが帰ってきたときすぐ会えるじゃない。今すぐ生まれるわけじゃないんだし、できる限り一緒にいたいなあと思って」
 凶悪だ。凶悪すぎる。
 事ここに至ってなんてかわいいことを言い出すのか。
「…聡子」
 軽く抱き締めてキスをする。キスはおなかと関係ないから一切手加減してやらない。
 今回の、短いスパンの帰宅で聡子は薄々感づいている。次の航海が長期になるかもしれないこと、それから、出産のときおそらく冬原はいないこと。
 聡子は冬原の腕の中で芽を閉じる。頬を包む手のひらに頬ずりをして、少しでもこのぬくもりを忘れないようにしようとする。
「ねえハル。あたし、実家帰ってこの子産むね。確かにいざというとき一人でテンパって大変なことになっちゃったら困るもんね」
 聡子はそう言って笑うけれど、本当は心細く思っていることなんかお見通しだ。
「ごめんね」
「何が?」
 冬原は聡子の額に口づける。
「いや、何でもない」
 なにがなんでも守ろうと思った。聡子と子どもを愛し尽くそうと思った。
 次の航海に、初めて、出たくないと思った。
 しかしそんなことを言えるわけもなく、まさに今。
 聡子はもう臨月のはずだ。毎日毎日今日は生まれるか明日は生まれるか、まさに今陣痛が始まっているんじゃないかと正直気が気でない。
 今度こそ無線連絡が入るはずだ。しかし念のため、出来る限りメールをチェックする。今は丁度寄港しているため、携帯でも少しは連絡ができる。
 聡子からのメールが一番多くて、二日に一通くらいのペースでメールが来ている。その日あったことから子どもの様子まで(おなかを蹴られただとか、女の子だとわかっただとか)細かく報告してくれる。
 実家で快適に暮らしていることがわかって安心した。
「冬原!」
 にやにやしていると、夏木がセイルに上がってきた。
「無線!連絡来たぞ!」
 反射だった。聞いて、セイルを駆け下りて走って無線に飛びついた。
『五体満足。元気な女の子です。母子共に健康ということです』
 そのとき表面的に自分がどんな態度をとっていたかもよくわからない。後で夏木に聞くといつも通りだったと言われた。からかわれたりおめでとうとあちこちから言われたけれど、すべて軽くいなしてセイルに戻った。上部指揮所で電話をかけようとしたところで、メールが来た。聡子からだ。
『生まれました!まだサルみたいな顔してるけど、かわいい女の子!名前は海ちゃんだね。一緒に写真も撮りました』
 添付されていた写真を開くと赤ん坊を抱いた聡子がいた。嬉しそうに笑っている姿になんだか涙が出そうなくらい感動した。気を取り直して聡子に電話をかける。もし繋がらなかったら病院に電話だ。なんとか、どうにかして、一言でもいいから言葉を交わそう。伝える言葉は「ありがとう」と決めている。











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