ウサギが死んだ。



 ウサギという名の動物は、淋しすぎると死んでしまうのだそうだ。
 淋しい淋しい
 寂しい寂しい
 そう呟いて死んでゆく。
 ああ
 淋しい。


 今日、君は爪を真っ赤に塗りました。僕はそれを見ながら、ああ、なんと卑猥な色だろう、と感じたのです。
 出かける前、君は泣きそうになりながら言いました。
「ねえ、覚えといて。あたしが赤いマニキュアを塗る日は特別なの」
 僕はそれをけして忘れることはないでしょう。

 僕達には親がいない。
「お姉ちゃん、お父さんとお母さんは?」
 小さい頃、僕は夜になると決まって姉に尋ねた。
「そんなものいないよ」
 二つ年上の姉は僕を叱り飛ばすことも、突然泣き出すこともせず、ただ静かにそう言うのだった。僕達には親がいない。親の稼いだお金で学校へ行き、物を食べ、親の持ち物である家の中で眠るのだけれども、僕達に親はいない。
「だってあたし達あの人たちに育ててもらってないもん。こういうの『産み捨て』って言うのよ。お金だけ渡しておけば子供は勝手に育つと思ってるの。どっちかが面倒見てると思い込んでるの」
 姉は毎晩両親の所在を尋ねる僕に言い続けた。
「あんな人たち親じゃないわ」

 病気になったとき、手を握っていてくれるのは姉だった。
 休みの日に遊びに連れて行ってくれるのも姉だった。
 彼女は今、卑猥な赤いマニキュアを塗っている。

 僕達には親がいない。
 でも姉さん、僕はそれが、とても寂しい。

 特別な日に塗る赤いマニキュア。
 姉は、両親と会う日と、恋人に会う日にだけそれを塗るということを僕は知っている。
 正直に言ってしまえばよかったのだ。
 寂しい、寂しい。
 僕達は今も、素直さと寂しさを表すことのできない、不器用な人間のままだ。
「ただいま!」
 姉が帰ってきた。強い口調のわりに、様子がおかしい。
「おかえり。…どうしたの」
 姉は泣いていた。玄関先に座り込んで、静かに泣き出した。
「お母さんに会ったの」
 ――お母さん。
 きっと彼女は耐え切れなくなってしまったのだろう。『母親』というものがすぐ傍にいる恐怖。目の前には、きっと、君の愛する人。
「お母さん、元気でやってるのねって、それならよかったって言ったの」
 ちっともよくない。
「ちっともよくないわよ!」
 僕達がどうやって今まで生きてきたのか。
 僕達がどんな思いで今まで暮らしてきたのか。
「何考えてるのよ!大丈夫なわけないわよ。あたし今ここにいるのに!あんたも…ここに居るのに、あのババアそのままどっか行っちゃったのよ!」
 母親である『あの人』は、ここ数年この家に帰ってきていない。
「信じらんない…」
 姉はなおも泣き続ける。
 君は僕らが相手にされなかったのに失望したのですか。
 母親という存在に絶望したのですか。
 僕という存在が何の支えにもならないことを痛感したのですか。
「寂しいね」
「…うん、淋しい」
 淋しい淋しいと、泣いてうずくまる君が居る。
 寂しい寂しいと、掠れた声で震える僕が居る。
 ウサギになって、死んでゆけたらそれはどれほど幸福だろう。
 寂しい淋しいと、泣いて震える僕らが居る。





 




 *POSTSCRIPT*
 寂しい寂しい泣いてたら、幸せは逃げていくものらしいですね。
 希望とか夢とかそんな曖昧なものに縋っていても何かが変わることはあまりないけれど、それでもヒトは生き延びることはできます。
 それこそ寂しい、と思うのはあたしだけでしょうか。



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