日記に書き散らかした小ネタ集 鋼版3
   つめをたててつめをたててつめをなめて


   煩わしいのは嫌いな自覚がある。はっきりと嫌いだ。
 そして真面目な女というものははまりこむとやばい、ということを経験則的に知っていたということもある。だからこそだろうか、彼女に手だけは出すまいと心に決めていたのは。
 実際彼女はかわいい女ではなかった。もの欲しげに自分を見るようなことはしなかったし、そんな素振りもなかった。真面目な女を貶めるのはいつだって男だ。畢竟、男がどうこうしようとしなければどうにもなるはずがない。
 しかしある日ついにやってしまった。女なら誰でもいいと思ったときに彼女がそこにいた。やばいやばいまずいあの女はやめておけ。警鐘が頭の中に鳴り響いた。が、そのときの自分はかなり荒んでいた。女なら誰でもよかった。
 リザ・ホークアイを誘うと彼女はほいほいついてきた。
 なめられている証拠かあるいは。

 あの短い爪なら背中に傷はつかないはずだ。ならば感謝をこめてあの爪にキスをしよう。音をたてて!


   カナリア


「炭鉱のカナリアを知っている?」
 優秀な女上司は唐突に呟いた。
「は?カナリア…っていうと、あの鳥の」
「そう、その鳥の」
 正直なところ、途方に暮れてしまった。昔から鳥は鶏しか馴染みがない。
「あー…すいません、俺鳥には詳しくなくて」
「ああ、いいの。知らないならいいのよ」

 その瞬間は何も疑問に思わなかったけれど『炭鉱のカナリア』はやけに頭の中に残っていた。 夏だった。暑かった。汗をかいていて、だけど野暮ったい軍服を着ているしかなくて。
 けれど今ならわかる。「カナリアになりたい」と彼女がぽつり呟いたことに気付いたから。

 病院は暇で暇で仕方がなかった。何かあったとしても対応なんかできないしな。自嘲する。
 暇潰しに炭鉱のカナリアについて調べてみた。
 炭鉱ではガスが出た際、毒の有無を確認するためにカナリアを放つ。カナリアが死ねば毒があるということだ。
 愕然とした。見るんじゃなかった。調べるんじゃなかった。傷口を思いきり抉りたい。
『カナリアになりたい』
 ああ、俺もカナリアになりたい。


   蝕


 月が人を狂わせるという説は自分には当てはまらない。それほどの感受性は持ち合わせていないのだ。ルナティック、それは平和な人間の戯言だ。
「触れても?」
「どうしてですか?」
「月がきれいだ」
「理由になっていません」
 今すぐ月が隠れればいい。何もかもなくなってしまえばいい。そうすれば戯言は真実無に変わる。求めるのは変化だ。恒常はいらない。
「理由が必要?」
「ええ」
 足元がずぶずぶと崩れ去っていくような気がする。
 後で言い訳してくれてもかまわない。魔が差したんだ、とか。ずいぶんな悪戯をするものだ。魔、とは。
「君に触れても?」
「触らないで」
 ループ、ループ、ループ。
 頑ななのは月のせい。




 左手の薬指に指輪。それに気が付いた自分は目ざといというか意識しすぎているというか、とにかくゴシップが好きな人間であるという事実は受け止めよう。粛々と。しかしこれは驚くべきことだった。もしもの話でも一度も出てこなかった緊急事態だ。これを誰に知らせるべきなのか、少々思案するが誰も思い浮かばない。友人も部下も当てにはならない。それを一瞬で感じ取った。ブラボー自分。実際その通りだった。
「あれは何だったんだと思う!?あてつけか!それとも暗に意気地なしとでも言われているのか!」
「知るかよそんなことー。ロイ、お前が昔プレゼントして忘れてるだけとかじゃねえのか?」
「いいやそんなことはありえん!自慢じゃないが俺は昔から人に物をやった時は全部書き留めておく癖があるんだ!何なら人生のプレゼント歴をすべて語ってやろう、デートで渡した花束から戦時中に賭けてとられた缶詰まで、すべて!」
「ほんとに自慢じゃねえな、それ。この変態」
「誰が変態だ!ちっぽけな癖まで気にされたら俺だって切ないだろうが!」
「いや、そこが嫌われてんじゃねえの?ほら、リザちゃん潔癖だし」
「お前は当てにならん!」
 相談相手を間違えた。この男は自分の妻子のこと以外の話なんざ聞いちゃいない。もっとまともな人間、まともな人間と思って頭の中で自分を中心とした人間関係図を組み立ててみる。ろくな知り合いがいない。ようやっと自分が相当寂しい人間であったと気づくことができたが、時既に遅し。もう自分は二十代後半も後半、あと数年で三十だ。ろくな友達のいない三十路前。いや素晴らしい友達だらけな三十路前もある意味気持ち悪いが、それでもその方が侘しくはない。手帳にも名前はびっしりだが、それはほぼ女の名前だし長く続いた女は一人たりともいない。ブラボーとかほざいてる場合じゃない。左手の薬指よりも重要なことに気づいてしまったような気がする。友達のいない三十歳。いや、それ以前にこんな生活を続けていて将来結婚できるのだろうか。地位もあり金もあるが友人も妻もいない独り身で老後を暮らす自分。指輪の彼女はとっくにどこぞの馬の骨にかっさらわれて幸せな日々。死ぬときは一人、誰もいない広い家で使用人に死後数日で発見され…
「そんな切ない老後は嫌だ!」
 ロイはそう叫んで扉を開け放った。老後を幸せに暮らすためには金も地位も必要だが生涯の伴侶も必要だ。
「…大佐、一体どう…」
 資料を手に仕事中のリザの両手を握る。今は仕事中だがこの際関係ない。誰が見ていようと気にすることはない。ここは東方軍司令部、今いるのは気心の知れた数名だけだ。
「結婚しよう」
 教会の鐘が鳴り響いた。いや鳴り響いて欲しかった。ええい鳴り響け!
「…は?」
v 「言葉通りだ。分かったらその薬指の指輪を捨ててしまえ!さあ籍を入れに行くぞ!」
「大佐」
「いやいやいや何も言わなくていいよ中尉。君も悩んでいたんだろう。だからそんな回りくどい行動に出てまで私に…うっ…」
 彼女の健気な努力を思うと余計切なくなってきた。目を手で覆う。彼女はまだ呆然としている。
「あの、大佐」
「もうこれからは何も心配しなくていいぞ!」
「いやですから」
「何が不満だね。国軍大佐!国家錬金術師!大総統への道まっしぐら!な私だぞ。容姿端麗頭脳明晰、非の打ち所もない!君のお祖父様もきっと祝福してくださるさ」
「あえて申し上げるならばその傲慢な態度が非ですが」
「プロポーズの現場に手厳しいよ君!」
「ですから、あの、今度はどんな夢を見たんですか?」
「……は?」
「薬指の指輪?何のことなんです?」
 そろそろとロイはリザの指を見る。指輪なんてどこにもない。
「…あれ?」
「さっきから先走っておかしなことばかり口走って…大丈夫ですか?」
 この「大丈夫ですか」は明らかにこの頭脳明晰と先程自画自賛したばかりのご立派な脳みそに対してだ。
「冗談を言ってる暇があるならすることはいくらでもありますので、どうぞ執務室へ」
 どうなっているのか。聞き返したいがそれに答えてくれる人間はここには一人もいないであろうことくらいは分かった。ブラボー自分。部下も友人も当てになんかならない。
「……あれ?」
 周りを見回してみると部下どもの顔に浮かぶセリフはただ一つ「処置なし!」
 惨めだ。
 理由を知っている者がここに一人でもいるなら出て来い、と怒鳴りつけてしまいたかったが、それをすることすら忘れていた。何故だ何故だ何故なんだ。
 答えは数分後、執務室の中にあっただなんてことはこの時点で予想だにもしなかった。


―――――――――――――――
実はこの後執務室に「残念☆ドッキリでした」っていうプラカード持ったヒューズがいるとかいう設定だったりする。

   愛を一つ


 疲れている。疲れているのだ、きっと。そうとでも思わないとやっていけない。
「はい、愛を一つ」
 そんなものを差し出されて素直に喜べるはずがない。いや本当は嬉しいんだけども。すごく嬉しいんだけども。この不正直な性根は素直に嬉しいなんて言えないし、それ以前の問題で受け取ることができない。
「…なんだよそれ」
「チョコレート。買ってきたの」
「何でそれが愛になるんだよ」
「人に物をあげるときにはどんなものでも愛が詰まってるもんなのよ」
 なんだそれ、とは思ったがそれを言うとまたうるさくなるので黙っておくことにした。アルが不穏な目でこちらを見ていたけれどそれも無視した。
「はい、愛を一つ」
 照れくさいのを押し隠しつつ口を開いた。食べる目的じゃない、言い返すためだった。なのだが。
「はい」
 口の中にはチョコレート、なめらかにとろける甘さにめまいがしてきた。
「おいしい?」
 顔が赤くなった。
 笑って言うな。
 笑って言うなよこんちくしょう。
「…それなりに」
 褒めたつもりなんて欠片もないのにウィンリィはまた笑った。


   恋を恋する人


 恋をしているのかもしれない。
 それを言われたのはいつだったか。今となっては覚えていないけれどもそんなのは見ていればわかった。彼はびっくりするくらいきらきらした目で、遠くを見つめていたのだ。
 悔しいけれど、見ているだけですぐにわかった。恋をしているのかもしれない。
「恋って誰に」
 彼の弟は呆然と、目の前の少女に聞き返す。まさかまさかこの展開は。
v 「見てればわかるでしょ。女でも人間でも、ましてやあたしでさえないのよ。あいつが恋しくてたまらないのは錬金術。人のこと言えないくせに」
「まあそうだけどさ。でも兄さんがそんなこと言ったの?ウィンリィに?」
「ううん。まさか、言うわけないじゃない。昔うちに来た人よ。錬金術をちょっとかじってたことがあるって人」
「その人が何で兄さんを知ってるのさ」
「それも決まってるわよ。あいつ目立つんだもん。見てればわかるわ、あの錬金術バカ」
 そこに少しだけ羨望や妬ましさを感じて、アルフォンスは押し黙る。こういうときに何を言ったらいいのか、彼は知らなかった。
「恋って何なのかしら」
「うーん……男女間の思慕の情、かなあ…」
「そんなつまんない返し方しないでよ」
「じゃあウィンリィは何だと思うの?」
 恋をしているのかもしれない。
 彼は。
 彼女に。
 生命の術に。

「…わかんないわ」

 ウィンリィは小石を蹴って走り出す。なんとなくここにはいられないような気がした。アルフォンスはそのまま何もできずに立ち尽くすしかなかった。
 恋なんて知らない。ただ今はあの背中に切なさを感じて胸を押さえるばかりなのだから。
 自分のしなやかに細い足は何だか不恰好なおもちゃのようで、ウィンリィは違和感を感じた。紛れも無く自分の足で走っていたって掴めるものと掴めないものがあって、今一番欲しいと思う体温や泥まみれの手や笑い損ねたみたいな笑顔はけして掴めないものだった。
「恋って何なのかしら」
 こんなに苦しいものならいっそ捨ててしまいたいとも思うのだけれどそれはけして無理で無理で、苦しくて切なくて振り返ってくれない背中が憎たらしくて。
 涙をこらえるために唇を噛んだ。


   呟くは呪文


 だから言ったじゃない、心の中で一度、口に出してニ度呟く。だから言ったじゃない。だから言ったじゃない。
 肌がまるで張り付いているようだった。離れたくないだなんて、思ってもいけないのに。
 こうなることは分かっていた。そうしないように必死で抗うつもりだったけれど、結局体は本能に忠実で言うことを聞いてくれなかった。
 離れたくないんです。少し囁いただけでも彼はそれを鵜呑みにしてしまうだろう。思っただけでも態度の違いを感じ取ってしまうだろう。それが嫌だった。
「後悔は?」
「しています、とても」
 後悔だらけだった。場の雰囲気に流されるだなんて、今まではそんなことなかったのに。
「それはあまり歓迎できない事態だな」
「いっそ歓迎してください」
 リザはロイに背を向ける。顔を見られてはいけない。
「君は私が嫌いかね」
 そうだったらどんなにいいか。
 そうだったらどんなにいいかわからない。求められても嫌悪を口にすることができたなら。触れる指先に愛しさを感じずに済むのなら。
「リザ・ホークアイ」
 今ばかりは応えることさえできなくて、きつく目を閉じた。
 だから言ったじゃない、だから言ったじゃない。
 こうしていたらきっと離れられなくなる。このぬくもりを忘れられなくなる。いつか愛しさで恋しさでいっぱいになってしまう。
 ――だから言ったじゃない。
 すべてを忘れるために呟くのは呪文。奇跡の業は使えないけれど思うだけならできるから。
 耳をふさいで目を閉じた。


   オブラートに包んで


 最初の記憶を探ってみると、それは妙に明るい光と誰かの腕の感触だった。 何をされたとか何があったとかそういうことではなくておそらく生まれ落ちたその時の微かな記憶だ。
 自分と他人の大きな違いは頭の使い方だと思う。思考にどれだけのものを費やすか。時間も脳もできうる限りすべてをささげて理論を組み立て結論を出し、それでも納得が得られないのならばひたすらに研究研究研究。大切なのは集中力だ。
 しかしごくたまに同じような人間もいたりするのだがまあそれはいい。優れているか劣っているか、競争すら大した問題ではないのだ。
 第一、そんな彼らでも生まれたときのことなんて覚えてはいないだろう。やはりというかなんというか、自分は少々他人と一線を画する存在なのだ――

 という虚妄に身を任せていると愛すべき腹心の部下は私を鼻で笑った。
「何かね」
「いいえ別に。何でもありません」
 厄介なポーカーフェイスは本当のところをけして見せてはくれない。しかしそれはそれでいいのだ。正直、見たいとも思わない。
「その聞こえよがしな溜め息が何でもないのかね」
「ええ、余計な気遣いは結構です」
 はっきりきっぱり言う彼女の思いは想像がつく。
『あーうざいキモい何でこんな喧しいのかしらクソ上司。詮索するな寄って来るな話しかけんな自意識過剰にもほどがあるんだよキモいキモいキモいキモい』
 とだけは思っていないはずだ。きっと。そう信じたい。いやそうであってくださいお願いします。
「…君の正直な気持ちを聞かせて欲しいんだが」
 殊更不安に陥ったのは彼女が私をうざいとかキモいとか思っていることが洒落にならないからだ。そうだそうなんだそれだけなんだ。さっきから脈が早めだとか顔がなんだか熱いとかそれは何でもないことなのだ。
「君は私をどう思っているのかね?」
 言った!言った言った言ってしまった。
 ああなんだか泣きそうだこれでキモいとか言われたら泣く。おうちに帰って布団から出てこない絶対!
「どう思って…正直にですよね?」
 いやあのそんなきょとんとされてもだね。
「ああ、正直に」
 でもちょっと言葉はオブラートに包んでもらえると心臓に優しくて助かるんだけども。
「どうも何も、大佐は大佐としか」
 ……アウトオブ眼中!

 ロイ・マスタング29歳独身、ある秋の日に泣きながら帰宅。


   足の先から頭のてっぺん、髪の一筋から爪の欠片まで。


 欲しいものがあるのだけれどそれは手に入らないものなのです。どうしても手に入らない。それは彼の死でしか得られることがないのです。だから私はけしてそれを望まない。
「不毛だと思うけれど」
 彼が安息を得ることを心の底から願っています。そうあって欲しいと思うのです。けれど彼の安息は死をもって得ることしかできないのです。
「単純なの。強くて優しくてたくましい人だから。怯えることをしないからそうなってしまうの」
 もしも彼がそれを望んだとしたら私は従うでしょうか。
「泣き叫べばいいのに」
 死にたくないと言って泣けばいい。叫びながら許しを請えばいい。けれど彼はけしてそれをしない。
 もしも彼がそれを望んだとしたら私は従うでしょうか。
「いいえ、いいえ。従ったりしない。殺してくれ、一言でも呟いた瞬間に彼に私を殺させるわ。何としてでも」
 逃げられないようにしてしまう。
 目的のもの以外見えないようにしてしまう。
 命乞いをしてでも生きながらえさせたいのです。彼を。
 彼の先にあるものが愛しくてたまらないのです。
 だからきっとこうすることしかできないのです。
「私は愚かでしょう」
 愚かだと言ってくれる誰かが今ここにいてくれたらよかったのに。
「愛ではないの。恋でもないわ」
 足の先から頭のてっぺん、髪の一筋から爪の欠片まで。
 私は彼のものなのです。
「本能よ」
 私はただの彼の本能。それに従い生きるでしょう。
 足の先から頭のてっぺん、髪の一筋から爪の欠片まで。

 愛しくてたまらないだけなんです。


   キスをして抱きしめて


 例えばただいまのキス。お父さんがキスをするのが好きだから(多分きっと)、お母さんもしてくれる。お母さんはお父さんにそれが「あいをしめす」ってことなんだと言われているみたいだった。お母さんは聞いていないようでいてそれをちゃんと聞いていて、次の日にぼくが家に帰ったらおかえりのキスをしてくれた。だからちゃんとただいまのキスを返して、お母さんに今日あったことを話す。今日はみんなでおにごっこをして遊んだんだよ。かくれんぼがいちばんとくいでみんなをすぐに見つけることができるんだ。ぼくはそれがとてもじまんだった。だからお母さんにもそれを言う。おなかの大きなお母さんがほんとはかくれんぼのたつじんだってことは、お父さんから聞いて知っていた。ぼくはお父さんじゃなくてお母さんに似てるんだっていうのがなんだかうれしかった。お父さんがきらいなわけじゃないけれど、やっぱりお母さんがいい。お母さんはいつもわらってそれを聞いていて、わたしはおとうさんにも似ているあなたが好きよ、って言う。それで前は抱きしめてくれたけれど今はおなかが大きいからそうもいかない。それはちょっとだけさみしいけれどもう少しのがまんだ。おとうとかいもうとがうまれたらお母さんはぼくを抱きしめるのにたいへんじゃないし、きっと抱きしめてキスをしてくれる。

「最近ずいぶん大人びてきたんですよ」
「いつから?」
「幼稚園に通い始めてから。他の子供と関わるとやっぱり違うんですね」
「へえ。家ではお母さんにべったりなのに」
「いいんです。外でしっかりしてる分少しは甘やかしてあげることにしてるから」
「…甘いな」
「私の子供ですもの」
 ロイはリザの髪を一房掬い取って、口付ける。
「妬ける?」
「いいや、別に」
「嘘つき」
「君が敬語を使わなくなると心臓に悪い」
「あら、どうして?」
「甘やかしてくれるのを知っているからかな」
 だから少しだけ子供が羨ましい。それは実は秘密の話。

 それからはただ静かに、キスをして抱きしめて。


   一つだけ


 一つだけ約束をしましょう。それ以外なら何をしてもいいとは言わないけれど、とても大事なことがあるの。
 そう言って握り締めた手のひらは小さくて熱くて、今まで遊んでいたからよだれやら土やらで汚かったけれど、その分命に満ちていた。
 ごめんね、その一言さえも出なかったことが悲しかった。約束なんてしなくてもきっとこの子はすべてに気付いているはずだから。
「お父さんのことは誰にも話さないで秘密にして。守れる?」
 子供は途端に意思の強そうな目になってリザを見つめる。
 黙ってうなづいた様にあの人を思い出した。
 ごめんね、大切なものがあるの。

「…マスタング将軍」
 ロイは机に突っ伏したままでその声には答えない。机の脇には朝から増えることはあっても一向に減る気配のない未処理の書類が積まれている。
 あーあー重要書類も入ってるのにあの中。
「将軍。マスタング将軍。そろそろふざけてる時間じゃ無いでしょう。いつもは早く帰ってるのに」
 愚鈍な部下はただロイを急かすが、その程度でまじめに働くような男ではないということは、その昔、彼が東方司令部にいたころからの部下なら誰でも知っていた。
「…そのくらいにしてやれ。今日は仕方がないんだよ」
 そろそろ肺癌でやられても仕方ない部下は少しだけ気を使うということを知っていた。
「どこが、何が仕方ないんでしょうハボック少佐…!」
 新たに配属された非常に生真面目な彼はまだ事情を知らなかった。
「奥さんと子供に逃げられたら誰でもああはなるだろー」
 肺癌で苦しんで死んでしまえ気遣い部下一号。
「ハボック!あることないこと騒ぎ立てるんじゃない」
「だって将軍、昨日帰ったら奥さんいなかったんでしょう?じゃあもう考えられることと言ったら…」
「お前の好みはレアかミディアムかウェルダンか?好きなように焼いてやる。選べ」
「ちょっ…待ってくださいよ事実じゃないですか!」
 事実であってたまるか!
 ロイは立ち上がって叫ぼうとした。
「……っ…っ!」
 叫ぼうとした――が、実際どうなったかというと、声も出なくなってしまって肩が震えだす始末だ。どうしようもない。
「あーもう興奮し過ぎなんですよー」
 ええいやかましい新任部下。
「もう若くないんですから。ほら、だから昨日からずっと奥方探ししてるじゃないっスか」
 ハボックはロイをなだめようとするが、結局それは逆に働いてしまったらしい。
 奥方とご長男はまだ見つかっていないのだ。
「私が…私が何をしたっていうんだ…」
 ロイは立ちすくむ。
 正直情けない。
「彼女は確かに気が強い。ああ気が強いさ!しかしこんなことをしでかすような気の強さだったのか!?否!そうじゃないだろう!いくら帰りが遅くたってバーのマッチが上着のポケットに入ってたって昔の遊び相手と鉢合わせして気まずい思いをさせたって…!」
 あんたそりゃあ逃げられるよ、とは言わない。言えない。この男の馬鹿さ加減に眩暈がするけれど言えない。
 言ったらその瞬間に仕事なんか余裕で放棄してしまうだろうことは目に見えていた。
「そりゃ逃げられますよ将軍…」
 あ、言っちゃった新任くん…
「……っ」
 それと同時にロイは駆け出した。
 走り去る背中には、『探さないでください』と書かれた張り紙が貼ってある。
「…ハボック少佐」
「何だ」
「あれは将軍自ら貼ったんでしょうか」
「そうだとしたら大爆笑だな。写真撮って証拠おさえとかないと」
「ではどちら様があんな趣味のいいことを?」
「ああ、そりゃ簡単だ」
 ハボックは煙草に火をつけて、吸う。
「誰かさんの愛のムチ、だろ」
 それにしてもあれに気付かず今まで過ごすとは。
「やっぱ時々チョロいなあの人」
 至言であった。

 迷ったことはない。それから悩んだことさえ。この瞬間に考えることはたった一つなのだ。あの人が来るか来ないか。
「おかあさん」
 息子の吐く息が白い。最近めっきり寒くなった。
「寒い?」
 鼻の頭を赤くした子供は懸命に首を振る。もうすぐ三才になるのね、一番近くでその成長を見てきたはずなのに、改めてそんなことを思ってしまうのは何故だろう。
「おかあさんはこれからどうするの?」
 やっぱりあの人の子供だわ、この子は賢い。
「どうするのかしら。でもね、今からお父さんがここに来るから、そしたら全部決まるわ」
 お父さんのことは話しちゃダメ、交わしたばかりの約束を思い出したのか、子供は押し黙る。
「今はいいわよ。お父さんの話」
 何しろここには彼以外はけして来ないはずなのだ。
「…いいの?」
 まっかなほっペを軽くつねってやる。柔らかい。
「いいのよ」
 どうせ考えるべきは、あの人が来るか来ないか、それだけ。

 探しに歩いてみようか、とも考えたけれど、探しに歩くどころか探しに走るのは昨夜から今朝にかけて済ませたばかりだった。
 夜中に一人で妻と子供を探し歩くのはさすがに堪えた。しかしそれでも見つからなかったことは更に堪えた。
 当然仕事なんかしていられない。自分付きの部下総出で捜索を進めている。結果、その分の事務処理に追われることになったのだ。だからこそ、ここで自分が探しに回るべきではないということはよくわかっていた。
「……っくそ!」
 苛立ちが止まらないまま、足はいつものサボり場所の一つへと向かっていた。せめて動いていないと気を紛らわすことはできそうもない。

「あら、意外と早かったんですね」

 その一言はきっと生涯忘れることがないだろう、確信した。
「おとうさん」
 探し求めていた声の一つに呼び掛けられた時、本気で泣くかと思った。
「――…っ」
 やはり声が出なくなってしまった時、いまだに若くて美しく聡明で勇敢な妻は言い放った。
「あら、意外と早かったんですね」
 床に突っ伏して泣きそうになった。
 ここで言うかそのセリフを!
「いやあの君何でここに!」
「…聞いてないんですか?」
「何を!誰に!」
「職場復帰しますって。ハボック少佐に」
 気が遠くなる、とはこういうことを言うのだきっと。
 軍服の裾を子供が引っ張った。良かった、怪我はなさそうだ。堪らなくなって意識が戻ってきた。抱き締めて、抱き上げる。
 きゃあきゃあと甲高い声がいっそ心地よかった。
「この子はどうするんだ」
「幼稚園に行くことになったでしょう。なのでせっかくだからと」
「……まあわかったそれはそれでもういい。百歩譲ってそこは了承しよう!嫌だけど。ほんとは本気で嫌だけど!」
 心中複雑な葛藤があったものの、ロイは一応うなづいて見せる。どうせこうなったら逆立ちしても敵わないのだ。
「だがしかしどうして家を出るんだ!納得がいかないぞそこは!」
「……強いて言うなら――愛のムチ?」
 そのクエスチョンマークとか変な間は何なんだ一体。何なんだ一体!
「すいませんわかんないよ君…イジメにしては手がこみ過ぎだろう荷物まとめて出てくとか…」
「まさかそこまで思い詰めるとは思いませんでした…」
「思ってくれそこばっかりは」
 情けなくなりながらロイはリザの頬に触れる。
「貴方は私を信用し過ぎなんです。貴方は自分がどんなことをしても私たちがいると思っているでしょう?」
 だから色々なことをしでかしもする。
「私が耐えられなくなったと言ったらどうするんですか」
「それはありえないよ」
 ありえない。その通りだから癪に触るのだ。
「……」
「ありえない」
 いっそ突っぱねることができたら良かった。けれどそんなこと、どうしたってできないのだ。
「卑怯ですよ…」
「何が?」
「せっかく一大決心したのに…」
「今まで、君が少しでも私を負担に思っていたら謝ろう。けれどそうでないなら、私は君を離しはしない。絶対にだ」
 リザは黙って俯いてしまう。こうなるのならば最初からしなければいいんだこんなこと。
「…ごめんなさい」
「謝ることはないさ」
 無事ならばそれで十分だ、ロイは呟いた。
「いえそうではなくて」
 なんとなく嫌な予感がして、子供を降ろす。子供は母親に走りよってその手を握った。
「そう思ってくださってることは嬉しいんです。本当に、少し申し訳ないとも思いますけど…」
「何故君は昔からそうなんだ」
「…今回は、愛のムチも兼ねていたんですけど、ある意味予行演習みたいなもので…」
 嫌な予感がした。とりあえず空気がいつもと違う。なんというかこう、家族水いらずなのにほんわかした感じが欠片もないのがどうにも気にかかる。
「職場復帰してもいいんですよね?」
「?ああ」
「配属が――東方になったんです…」
 ちなみにここは中央だ。ああ懐かしの東方司令部!
「…っ……っ人事ーー!!」
 ロイの絶叫が響き渡り、リザは思わずその首に手刀を叩き込んでしまった。なんというか条件反射である。
 がっくりと白目を剥いたロイを見て立ちつくす奥方とご長男を、ハボック達が発見するのはこの二分後のこと。


 今現在軍法会議所でそこそこの地位にいるのは、事務系等が得意であった部下の一人である。もちろん人事に口を出すことくらいは容易に決まっている。だからこそ、まさかこんなことが起こり得るなどとは考えてもいなかったのだ。明らかにおかしいじゃないか、何故わざわざ夫婦を引き離そうとするのだこの馬鹿者は!
「何を考えているのか教えてもらおうか」
 軍の医務室で目を覚ましてからロイはまず軍法会議所へ向かった。もちろん裏工作のためだ。裏工作のくせに堂々としすぎているという意見はひとまずおいておく。
「い、いえですからこれは奥方たっての願いで…」
「そんなわけがなかろう馬鹿かお前は。何年私の、彼女の部下を勤めてきたんだ情けない」
「そんなことを言われましても…」
「ファルマン、私は何もそんな決定を下されたのに何もしなかったお前を責めているわけではないんだ」
 責めている、どう考えても責めている!
 ファルマンは青ざめつつ額の汗を拭う。
「はっきりと申し上げましょう将軍」
 言いたいことがあるなら言ってみやがれと体で表現しているロイはなんというかふんぞり返っている。
「私たちはホークアイ中…いえ、マスタング夫人が職場復帰を希望すると言い出したとき考えました。また将軍の補佐をしていただくか、それとも他の部署で働いていただくか、もしくは中央以外の司令部に勤務していただくか――」
「復帰を思いとどまらせるという選択肢は何故なかったんだろうな」
「もちろん将軍の認可の上だと思っておりましたので」
 そこまで見抜けとはさすがに言えないだろう。常ならば考えられなかったのだ。彼女がロイに何の断りも、話すらなく勝手に物事を決めてしまうなど。
「当初は私共も体に負担のかからない事務を、ひいてはこの軍法会議所勤務ではどうかと考えました」
「その考えは認めよう」
 さすがにまた現場に出るような部署にはやらせたくはなかった。それに元来夫婦なのだから同じ部署で働くわけにもいかないだろう。ロイの補佐という意味で最も適した存在であったからその意見も出たのであろうが、さすがにそこまでする気は毛頭無い。
「しかしそれをお伝えすると夫人は自ら別の司令部のことは考えたのかと仰りまして…」
 ここだ。ここからおかしくなったのだ。
 どうにも暴れだしてしまいそうな自分をセーブする。落ち着け落ち着け落ち着け。
「確かに東方などは人手が足りておりませんが、という話をいたしますと夫人は自ら、ではそこへ行くと…」
「納得いかないのはそこだ!」
 ロイは机に手をたたきつけて立ち上がる。納得いかない。まったくもって納得いかない!
「何故リザはわざわざ東方に行こうとしたんだ!中央ならちゃんと家があるじゃないか!まさかあそこまで汽車で通うわけにもいかんだろう問題はそこだ!家族がばらばらだぞ!?何たる危機だ!」
 そんなあんたが何たる危機だよ、扉の向こうで追いかけてきたハボックは思う。しかしながら何も言わずにノックを二回、扉を開く。
「失礼しまーす」
「ハボック少佐!」
 ファルマンが歓喜の声を上げる。それはそうだ。一人でこの男をどうにかしようなどとは思ってはいけない。スケープゴートが二匹に増えたことを素直に喜ぶべきか否か。とはいえハボックはどちらにしろ常にスケープゴートには違いないのだ。いまだに近くで補佐をしているのだから。
「将軍、奥さんと子供が待ってますよ。帰りましょうよ」
「ええいうるさい一度肺がんで死んで生き返って来い気遣い部下一号!」
「はあ?何ですかそれ」
「どうして!どうしてリザは…っ」
「はいはいはーい戻りましょうねー。理由はぞんっぶんに奥さんから聞いてください俺知らないっスよもう…」
 ハボックはロイの肩を掴んでずるずると引っ張っていく。
「ハボック貴様上司に向かって何をする!」
「上司なら上司らしくしててくださいよほんと…」
 軍法会議所は嵐に巻き込まれつつ静けさを増していった。人一人でこんなにも違うものなのかと初めて知りましたと後にファルマンは語った。


 ご迷惑をおかけしました。
 いえいえ奥様こそご無事で何よりです。
 などといった諸々のご挨拶を終えてリザがロイの執務室を訪れるとそこは惨劇だった。
「…また仕事を溜め込んで」
「君も子供もいなかったんだ。仕事どころじゃないに決まってるだろう」
「何だかんだ言って家庭が大事な人になったんですね」
「ヒューズを見ろ、あいつだって昔は私なんかメじゃない暴れっぷりだったくせに家庭を持ったらああだったんだぞ」
「貴方がそうなるのも道理、ですか?」
「ああ、道理だ」
 ロイは書類の山の頂上から一枚紙を取り、目を通すとサインをした。
「リザ。聞きたいことがある」
「わかってます」
「どうしてあんなことをした」
「……最初はそんなつもりはなかったんです。事務であろうとなんであろうとやるつもりでした。けれど…」
「現場が恋しくなったか?」
 リザはうつむいて黙り込む。こうなると何も言えない。
「…はい」
「まいったな」
「ごめんなさい」
「謝ることではないだろう。君は現場が好きだった」
「貴方のお守りよりもよっぽど」
「……まるで私が手のかかる子供のようだったみたいじゃないか」
「そうでしたよ?」
 ロイは頭をかきむしる。眉間にしわが寄っていた。
「君はどうしてそう…」
「ごめんなさい。本当は離れていきたくなんかなかった」
「子供のこともあるし?」
「いいえ、それは最優先事項」
「そうだな。私よりも大事だ」
「そう、でも私には、貴方と同じくらい大事」
「…私が起きたとき枕元にいたよ。それで何て言ったかわかるか?」
 ロイは立ち上がってリザの頬に触れた。
「『おかあさんと約束をした』君にそっくりな目をして言うんだ。余計堪らなくなったよ」
 昔から約束は大事なことだった。彼を一生涯守ると決めたのも約束、結婚したのも約束、それからこうして今ここにいるのも約束。
「外で何が起こるかは分かりませんから。あの子もそろそろ自覚を持たないと。ねえ、次期大総統閣下?」
 大総統の息子ともなれば狙う輩はたくさんいる。その中で沈黙は一つの有効な自衛手段に繋がることもある。
「知ってたのか」
「もちろん」
「もうすぐ公表だ」
「私はとうとうファーストレディですか」
「職場復帰しなくても君に仕事は山ほどあるさ」
「…だから復帰したかったというのに…」
「悪足掻きはやめた方がいい。どうせ結果は知れているんだ」
 リザ、呼ぶと彼女は目を伏せた。
 ロイはリザの肩に手を回す。自然リザはロイの胸に自分の体をゆだねる格好になる。
「リザ」
 返事は無い。彼女は目を伏せたままだ。
「…リザ?」
 相変わらず返事はない。手が冷たい。
「リザ!」

 彼女の意識がなかった。


 どうしてこうなってしまったのかしら、考えてみると答えなんて出なかった。もともと答えなんて無いのだきっと。この選択をして結局失敗したのは自分だしそうさせなかったのは彼だし、あくまで大事であったのは子供。それだけの話だ。
 ただ一つだけ何かあるとすれば、そこには必ず愛があったこと。
 愛だなんて馬鹿みたい、昔ならばそう思ったけれど今はあまりそう思わない。愛されるのは幸せだし愛することも幸せなのだ。それを子供に教えてもらった。大切なこと。
 薄く目を開くと手が温かかった。誰かの手に握られているのだ、と気づいたけれど放っておく。この指の感触の持ち主は一人だけだ。親指と人差し指の感触が彼は少し違う。現場で何回も何回も擦り合わせて傷だらけになって感触まで変わってしまった、ロイ・マスタングその人の指。
 ああそうか、倒れたんだったわ。思い出して、目を開く。
「リザ…」
 それでも何だかまだ眠くて、もう一度眠ってしまいそうになるのをどうにかこらえる。
「ごめんなさい」
「何が」
「心配かけて」
 もしかしたら怒っているかもしれない。散々勝手なことをしてこの始末だもの。
「…それよりも体の方は」
「大丈夫です」
「君の大丈夫は当てにならない。こういうときは特に」
 不幸ながらも確認済みだ、ロイは呟く。
「医者を呼んだ」
 ここはどこだろう、と考えてみたけれど周りを見回せばすぐに分かった。自宅の寝室だ。
「どうして何も言わなかったんだ」
「…何がですか?」
 医者の診察結果の内容なんて眠っている最中のことだ、知るはずも無い。
「君気づいてなかったのかもしかして」
「だから何がですか」
「……うん、あー…いやあのちょっと待ってくれ落ち着くから」
 落ち着くからと言って何を動揺することがあるのかとも思ったけれど、もしかしたら重大な病気だったのかもしれないと思うとなんだかこちらも落ち着かない。
 そういえば最近あまり食欲がなかったし、というか食べ物のにおいからしてダメで吐きそうになったりしていた。そんな状態でこの寒い中外に出ていたりしたから悪かったのかもしれない。
「おかあさん!」
 扉を開けてとてとてと子供がやってくる。ああそうだこの子にも心配をかけてしまったのだ。
「おかあさんおなかだいじょうぶ?」
 ……おなか?
「大丈夫よ」
 顔で笑って内心動揺。おなかっておなかってまさか。
 ロイが顔を背けているのがちらりと見えた。逃げたのだ。子供に任せるつもりなんてそんな父親らしくもないというかヘタレというか。要するに両方。
「ぼくにおとうとかいもうとができるってほんと?」
 …やっぱり。
 とりあえず子供を無言で抱き寄せる。
「あらどちらへ?」
 リザはそろそろと席を立とうとするロイを呼び止める。
「…いや喉でも渇いたんじゃないかと思って」
「お気遣いなく、大丈夫ですから」
「………」
「せめて貴方の口から聞きたかったと言っても無駄でしょうね」
「いやあのだって先に言われちゃったから…」
「だってじゃありません」
 ロイは無言でまた椅子に座る。
「…そういうわけだ」
「そういうわけなんですね。なんだか色々と納得がいきました」
 この子はとてもしっかりした子で、大人がこんな空気で話しているときには口を挟んではいけないということを知っている。なんて賢いのかしら!
「君気づくの遅いよ…」
「仕方がないでしょう気づかなかったんだから」
「いやまあそうだけども。…何はともあれ、これで職場復帰は完全に無しだ。もちろん東方への勤務も」
「こう、狙いすまされたような感じがどうにも納得がいきません」
「そこは納得してくれ」
「…わかってます」
 本当は分かっている。だからいい機会だったのだと思うことにする。
「本当はこんなこと言いたいんじゃなくて…もう、なんていうか…」
 ロイはリザと子供二人を抱き寄せた。愛しい愛しい。
「うん、ありがとう」
 耳元で囁いて、ロイはリザの頭にキスをした。
 ぼくも、と小さな声が聞こえたので、今度はお母さんがほっぺにキス。


 一つだけ、たった一つだけ大事なことがあるの。


   幸せな世界


 楽しみにするのもいいのだけれど、正直ちょっと先走りすぎなのではないかとは思ったりもする。ちょっとこの人先走り過ぎじゃないかしら、そんなことを言おうともしてみるけれど、どうにもこうにも言い出せない。
「生まれてくる子供は女の子だな、金髪の!しかもかわいい!」
 確信するのはいいけれどその予想が違ってたらどうするのかしら。
「名前もこう、とびっきりのものを考えなくては。女の子の名前を考えるのは得意なんだ。きっと良い名前にするよ」
 男の子だったらどうするのかしら、とは言えない。
 子供のようにきらきらした目で腹に耳を当てられると、もう本当に何も言えない。
「あなたが子供みたい」
「残念、お父さんなんだ」
 照れくさそうに笑わないで欲しい。嬉しくて愛しくて泣きそうになってしまうから。
「早く出てくるといいな」
「まだ産まれませんよ」
「わかってるさ。それでも」
 準備をして待ってるから、早く出ておいで。
 その指も温もりもあんまりに優しいものだから、きっとこの子は幸せになるだろうと確信した。きっとこの子はいくらでも幸せになれるだろう。血なまぐさい世界も汚い世の中も知らずにふわふわと優しい世界で一生を過ごすことはきっとできないけれど、できる限りのものは与えてあげたい。
 大丈夫、世界は少しだけ怖いものだけれど、愛しいものはたくさんあるから。
「君もこの子も幸せだといい」
 静かに微笑む彼を見るのが少しだけ辛かった。この人は何を決意しているのかしら。
「幸せです。きっと、この子も」
 泣きそうになるのをかろうじてこらえた。

「……」
「………」
「何故だ」
「何故も何も、男の子では不満ですか?」
「女の子だと思って全部名前もベビー用品も準備して男の子でしたなんてそんな…!」
 確信してはしゃぎまわる方が悪いとは思ったけれど、言い出せなかった自分にも少しは非があるとは考えないでもなかったので、とりあえずは黙っておく。
「金髪の…君によく似たかわいい女の子の予定だったのに…!」
 予定は未定であって確定ではないんですよ。
「…私の息子に文句があるんですか?」
「…いや、それは無い。無いが…」
 彼はすやすやと眠る赤ん坊を見る。産まれたとき、赤ん坊がこんなものだとは思ってなかったので驚いた。サルみたいな顔をしていたから。このまま育ったらどうしようかしら、と将来も心配してみたけれど、すぐにそれは杞憂だと知った。
「かわいいな」
 どうしてこれがかわいいと思えるのかは微妙にわからないのだけども放っておくことにする。
「かわいいでしょう」
 思ってもいないのだけれどとりあえず同意。自分は昔より器用になったと実感する。
「この子は将来賢くなるぞ。私の子供だからな」
「じゃあ、きっと貴方より真面目で努力家にもなってくれますね。私の子供ですから」
「君、それは遺伝じゃないだろう」
「いいんです。それでも」
 赤ん坊の瞳は深い琥珀の色をしていた。
「じゃあ次は女の子だな。今度こそ」
「まだ当分先の話でしょう」
「いやまたすぐにでも」
「私が職場に復帰する暇は無いんですか」
「もちろんだ。覚悟したまえ」
 目を輝かせて言うことでしょうかそれは。
「しょうがない人」
「何だかんだ言って甘いのは君だ」
「許したつもりはありません」
「許す許さないの問題かね」
 楽しそうな声音にイラついた。どうしてまたこの人は。
「…しょうがない人」
 許すつもりは永劫ないけれど、とりあえずは折れないと彼は文句を延々と言い続けるだろうことは簡単にわかった。
「まあいいさ。そろそろ仕事に戻らないと」
「どうぞお気をつけて」
「ああ、また帰りに来る」
 別れのキスを忘れずに、彼は職場に戻る。こういうところはマメなのだからもう少し仕事でもマメになればいいのに。仕事が少しだけ恋しい。殺伐に慣れたつもりはないけれどあの世界は居心地がいいのだ。彼はきっと悲しむだろうけれど。
「女の子が生まれやすい体位やら食事やらは私が調べておくから君は安静にしていなさい」
「何ですかそれ」
「約束だ」
 彼はまた仕事に戻る。きっと生活感の大部分を捨てて。
 約束なんかなくても大丈夫ですよ。今なら言えるかもしれなかったけれど、口をつぐんだ。
 こんなときでも泣き出さないなんて、なんていい子なのかしら。
 この子は幸せな世界に生きるだろう。血なまぐさい世界も汚い社会も、知ることはたくさんあるけれど、光のあたる世界に生きるだろう。
 大丈夫、世界に愛しいものはたくさんあるから。


  あいのあかし


 左手の薬指にあるはずのものが無かったのを見たときは少しだけ逆上した。
 しかしそんな狭量な男ではないと自分に言い聞かせなんとか怒鳴るのはとどまる。もう少し考えてみろ、もしかしたら今だけはずしているのかもしれない。それかちょっと家事に邪魔だったとか。邪魔と言われてはずされるのもどうかと思ったがまあそこはそれだ、彼女のことだから仕方ない。これが銃を撃つのに邪魔だから、なんてそんな職業病のような理由ではないことをとりあえず祈った。
「…指輪は?」
「は?」
 は?言い返された。ちょっと待てちょっと待ってくれここはそうじゃないだろう。
「いやだから指輪をだね」
「なくさないようにしまっておいてるだけですよ?」
 愛の証を身に着けていようという発想はないのかね君。
「私はいつもしてるのだが」
「なくさないでくださいね」
「そんなへまはしないというかそうじゃなくて」
 彼女の細い指に自分の指を絡ませてみる。プラチナのシンプルな指輪はこの華奢な指によく似合うことだろう。実際よく似合ったのを思い出してなんとなく照れくさくなった。
「何故していないんだ」
「…なくすと困るじゃないですか」
「君はなくさない」
 人からもらったものを、しかも結婚指輪をなくすだなんて、そんなことをするような女ではないということは知っていた。自分の大切な人からもらったものだけはとにかく大切にするのは彼女の習性だ。
 ブラックハヤテ号が取ってきた石もエリシアが小さいころに描いた絵も、彼女は大切に持っていた。
「…していないと不安ですか?」
「いやそうじゃないさ。そうじゃないがね…うん、何と言ったらいいのかなこれは。少しだけ不愉快だ」
「そうなんですか」
「うん、そうだ」
 彼女は驚いたように言うけれど、その手はこの腕にそっと触れて戸惑いを隠さない。 「指輪というものはもともと拘束具なんだそうですよ」
「…どこの世界の男も考えることは同じさ。身勝手なエゴだ」
「悪いといってるわけじゃないんです。ただ、もうそんな必要は無いと思っただけ」
 彼女は静かに微笑むと、手を腹に当てた。
 まさか。
「…嘘だろう?」
「嘘?」
「いや間違った。驚いた…」
「ほんとですよ」
「…触っても?」
「どうぞ」
 ゆっくりとなぞるようにその温もりに触れてみる。正直何が何だかわけがわからなかった。これほどまでに愛しいものがこの世にあったのだろうか。
 そっと耳を当ててみると心臓の音がした。
 こだまするあいのあかしはいのちのかたちをしていた。



   爪の先一ミリ


 髪を伸ばしたことで何が変わったか。気づいたことならいくつかある。まとめた方がショートカットよりも実は邪魔にならないとか、手入れを少しながら気にするようになったこととか、それから彼の執着がほんの少しだけ増したこと。
「ずいぶんと伸びたな」
「伸ばしましたから」
 簡潔に答えると彼は愉快そうに笑う。
「誰のために伸ばしたのか、そこが聞きたいな」
 彼はいつもこういう問答を好む。すぐに答えられないようなことをわざわざ言ってその反応を楽しむのだ。
「貴方のためです」
 彼はいつもこんな問答を好むので、私はもうそれに慣れてしまっていた。短かった髪が今の長さになるまで、ずっと一緒にいたから。
「…面白くない」
 面白いと思われてはたまりません。
 彼に面白がられてとんでもない目を見てしまうだろうというのは予想できることだった。
「それは結構」
「何が結構なんだね。ちっとも良くないさ」
 彼は私の腕を掴んで引き寄せると、髪に指を絡ませた。不器用な彼が摘み取った髪は無残な有様で、頭皮が引っ張られて少しだけ痛い。
 痛いです、そう言うと彼はにこやかに笑ってみせるので、ああもうだめだわ、と心の中で呟いてみた。
「それは結構」
 彼の指が乱暴に顎を掴んで、それからはめくるめく愛の交歓。
 爪の先が皮膚に埋るのは一ミリ。


   な忘れそ


 生れ落ちる瞬間の恐怖や絶望や安っぽい光に照らされて、子供は泣き叫ぶのだ。今の自分はそれに酷似している。良くも悪くも、自覚はしていた。
「どうにもこうにも、これから先というものが見えなくて困る」
「困るんですか?」
「ああ、困るさ」
 目的はないわけではなかったけれど、どうしていいかわからないというのが正直なところだった。片目を失ったのも初めてだしそういう生活を送るのも初めてだ。彼女についていてもらわなければ日常生活すらままならないような、そんな――
「君は仕事に戻りたいだろう?」
 あれだけ精力的に仕事をこなし軍人として働いていた彼女が、今更すっぱりと元上司の世話をしようなどと思うはずもない。
「何故ですか?貴方がいないのに」
「君の仕事だ」
「私の仕事も理想もあくまで貴方がいてこそです。貴方のいなくなった軍には…正直なところ、用はありません」
「私に依存して生きるのはやめたまえ」
「依存のつもりはありません。ただお傍に――傍に、いたいんです。それだけ」
 いつからこんなに殺し文句が得意になったのだろう彼女は。記憶を遡ってみたけれど結局はわからなかった。
「…仕事に戻りたまえ」
「大佐」
「もう大佐ではないさ」
「失礼いたしましたマスタング准将」
 リザは背筋を伸ばして敬礼をしてみせる。これが嫌味でも皮肉でもなくてなんだというのか。
「私は自分の思うままに動きます」
 それは頼もしいことだ、思ってロイは口を閉じた。これ以上言ってもおそらくは無駄だということは、情の強い彼女のことだ、よく知っていた。 


 良くも悪くも、彼女は情の強い女だった。
 そこにつけこんでしまえばいいとは思うが、しかしそれは卑怯だろう、という気持ちもある。正直なところこのまま一生過ごしていられたらどんなに幸せかとは思うのだ。本当に、どれだけ幸せか。
「准将が復帰なさるのはいつになるんでしょう」
「さあな。それが分かれば苦労はせんよ」
 そうですね、リザはうつむく。
「貴方は帰ってくるんですか」
 軍に。仕事に。あんなことがあった後でも。
「…ホークアイ中尉」
 言われなくても戻るつもりだった。自分の仕事はこれしかないのだ。
 リザが何を気にしているのかはよくわかった。このまま軍人として暮らしても自身が国家統一を果たすことはすでに不可能なのだ。それにどうしてしがみついていようというのか。
「逃げるような真似はしない」
「その姿で、ですか」
「ああ、この姿で、だ」
 片目を失った。だから何だというのか。片目ごときいくらでもくれてやろう。それで代わりに何か得られるというのなら、いくらでも。
「…安心しました」
 明らかに安心していない声音でリザは言う。
「大丈夫なんですね」
 大丈夫じゃない。そんなことは言えなかった。
「君は何を…」
「さよならを――」
 耳を疑った。何を言い出すというのか。
「さよならを、言ってもいいですか?」


 彼が顔を歪めるのを見てしまったことに、罪悪感を感じた。けれど罪悪感なんて抱くことはないのだ。愚かしいのは自分、そのとばっちりを受けたのが彼。
「さよなら?」
「はい」
「何故」
「申し訳ありません」
「謝罪などいらない」
 ロイは怒っているようだった。この上なく。けれど同時に泣きそうだった。悲しいというよりは、悔しくて泣きそう。
「…私はもう必要ないんです」
「それを誰が決めた」
「私自身です」
 正直に彼に言って許されるとは到底思えなかった。頑固な人だから。
「私が、もう貴方のためにできることは何も無いのではないかと思ったんです」
「それを決めるのは私だろう」
「ですが」
 リザはうつむいた。ロイの顔を見ていられなかった。泣きそうになっていたのは自分だったのかもしれない。
「ですが、私は決めたんです」
 ロイが息を吸うのが気配でわかった。
「君は愚かだな」
「はい」
「この上なく」
「はい」
「それから素直じゃない」
「はい、そうです」
「嘘つきだ」
「…ええ」
 ずっと傍にいると誓った。ずっと傍にいたいと願った。けれどそれはかなうことのない約束だった。
 心だけでも貴方の傍に。
 そんな馬鹿げたことを言うつもりは無かったけれど、気分はそうだった。それが自分でもおかしい。
「君は引き止めて欲しかったんだろう」
 ロイは呆れたように息をついた。
「顔を上げたまえリザ・ホークアイ。何故私に黙って出て行かなかった?」
 リザは目を見開いた。驚愕しながらも、ゆるゆると顔を上げる。
「何故私に黙って行ってしまわなかった。そうすれば私は何も言うことはできなかっただろう。別れを言う暇は無駄でしかない。君は何故別れを言おうとした?」
 答えられなかった。答えてしまったら最後のような気がした。
「引き止めて欲しかっただけだろう」
 リザの頬を涙が一筋伝った。
 そうだ、引き止めて欲しかったのだ。すべては無意識だったけれど、結局はそこに帰結する。別れを告げようとして、引き止めてもらって、それから。
 それから?
「違うかね」
 リザは頷きそうになったけれどそれを必死に堪えた。ここで頷くわけにはいかなかった。そんなことをしてはいけなかったのだ。そんな、そこらの女みたいな。
 それから先を、本当は心から望んでいただなんて、そんなことは言えない。
「…君は頑なだな」
 ロイはリザの腕を引き寄せて、彼女を抱き寄せた。
 欲しかったのはきっとこの熱と吐息と、彼のすべて。


 愚かな女だ。
 彼女はあまりに愚かしかった。自分が誠実であるつもりはないけれど彼女にはそういったものが欠片も見当たらない。どれだけ卑怯になりきれば気が済むのか、ついつい考えてしまう。
「子供じゃあるまいし」
 子供じゃあるまいし、こんなに素直になれない女の相手をしたいとは思わなかった。けれどこの女の相手をすることができるのは自分だけであるということは知っていたし(否、気づいていた)、それは悪くないことのようにも思えた。
「君がどうしたいかなんて本当は分かっているんだ」
 引き止めて、その先。
 彼女の求めることは安息と幸福だった。そのときばかりは完全に。
「今まではそんなものを求めようとさえしなかったのに」
 そんな彼女を変えたものはなんだったのかと考えるけれど、答えは一つ、この傷だ。死にかけてしまった自分だ。死なせたくないとひたすらに願ってしまった彼女自身だ。
 彼女は傷ついたのだろう。自分が居ない世界を少しでも想像してしまったのだろう。それならば今まで生きたすべてを捨ててもいいなどと馬鹿げたことさえ考えてしまったのだろう。
 リザは何も言わない。ただ、肩が震えるのを手のひらで感じるだけだ。
「顔をあげろ」
 泣いていればいいと思ったけれど、彼女は気丈にも涙を止めていた。
「リザ」
 この女の相手をできるのは自分だけなのだ。
 そして自分の相手が務まるのもこの女だけなのだ。
 それは知っていたし、気づいていたし、悪くないことのように思えた。
「君を逃がしたりはしない」
 何があっても、絶対に。


 あいして。
 願ったことなんて何も無いはずだった。
 何も無かったはずなのに。

 逃がさないだなんて、そんなことを言われてしまって平然としていられるはずもなかった。頭の中はパニックで、どうしたらいいかわからなくなってしまって、全身から力が抜けた。
 彼はそんなことはわかりきっているとばかりに抱きしめた体を離さない。なんて人。
 重症で寝込んでいるだなんて思えないほど強い力に戸惑った。
「絶対に離したりしない」
 悪あがきに、離して、と一言呟いてみた。
 腕に力がこめられたのを感じた。きつく抱きしめられすぎて少しだけ痛い。
 けれどそれはあまりに現実を伴わない言葉であったので、我ながらおかしく思って泣きそうになった。
 彼は安心していることだろう。
「リザ」
 ロイはリザの頬を両手で包んで目を合わせた。
「君の欲しいものを知っている」
 あいして。
 あいしてください。
 言葉は声にならなくて、ただ不思議な響きでそこにあった。
 その後彼は熱に浮かされたようにリザ、と何度も名前を呼んだ。それに応えようと、ロイと口に出してみようとしたけれど、それは無理だった。どうしても抵抗感がぬぐえなかったし、彼に唇をふさがれたからでもあった。
 あいして。あいしてください。あいして。
 繰り返し繰り返し、それしか言えなかった。
 貴方の欲しいものを知っている。
 あいして。

 リザはロイの背中に手を回した。
 指先が震えていた。
 すべては消えてゆくけれど、この瞬間だけは永遠であるといい。


   永遠にねむる


 伸ばした手を引っ込めてみる。
 なんて不毛なんだ、思いつつハボックは目の前の金色が傾いでいくのを見た。彼女が居眠りなんてとても珍しいことで、正直そのまま見ていたいとは思ったもののそういうわけにもいかなかった。一度伸ばした手をさっきはすぐに引っ込めてしまったけれど、今度こそ叱咤激励、背中をたたく。
「中尉」
 声が震えた。おいおい勘弁してくれよ。
「中尉」
 泣きそうになった。早く起きてください。起きてください。
「……ん…」
 静かに目を開けるのを神に祈るような気持ちで見守っていると、リザはやはり優秀な彼女らしくすぐさま我に返る。
「ああ、ごめんなさい。寝ちゃったわ」
「いえ。大佐が呼んでましたよ」
「今行きます」
 正直なところ、あのままずっと眠ってくれていたらいいと思った。そうしたら連れて帰ってそのままベッドに寝かせてきっとずっと寝顔を見ていた。それだけでは我慢できなくなる日がいつか来たとしても、きっと堪えた。
「いってらっしゃい」
 リザはこんなときでも自分のペースを崩さない。急ぎながら、それでも静かな足取りで部屋を出て行った。
 椅子には彼女の温もりがかすかに残っていた。
 不毛だ、まったくもって不毛だ。
 思いながらハボックはその温もりに口づけた。


   沈黙の対価


 あれはたしか夏のことだった。
 それだけは確かに覚えている。

「う…あっ…」
 焼けた砂が背中に触れる。太陽というものはひどく残酷だ。ただの砂を簡単に拷問の道具にしてしまう。
 肩で息をするとそれに満足したように男は笑った。
「ああ、熱かったか」
「いいえっ…」
 強がるところではない。
 強がったら彼をつけ上がらせるだけだとはわかっていた。嘘を見抜くのがとても上手な人だと知っていたから。
 どうしてこんなことをしているんだろう。考えてみたけれどわからなかった。きっとそれは必然だったのだ。けれど。
 腰に手を回されて体を起こされる。裸の背中に彼の指が這った。
「痛っ…」
「火傷だ」
 指は遠慮なく裸の背中を傷つけ抉るけれど、それは大して気にならなかった。男の方がよっぽど痛そうな顔をしていたというのが一つ、それから、痛みはそれほど重要なことではなかったから。
 きっとこの背中は赤く焼けてしまっている。冷やしてももう無駄だろう、この分だと。彼のつけた傷は痕になって残るかもしれない。そうなってしまえばいい。粒状の拷問は太陽のせいであって、彼のせいではないのだ。
「こうしていて得られるものがあるのか」
 彼はぽつりと呟くと、火傷を弄っていた手で唇をなぞった。唇はかさかさに乾いていて色も薄く、けれどただただ赤かった。細く蠢く毛細血管の赤み。
 その問いには誰も何も答えを持っていなかったので、沈黙するしかなかった。
 男は求めるものを知らないのだ。いつまでもどこまでも。

 あれは確かに夏のことだった。
 凶悪な太陽の爪あとはもう消えてしまったけれど。


caution!!
大佐死にネタにつき苦手な方はご遠慮ください




 あの人が死んだと言われて一概に信じることができなかった。実際以前にもそんなことはあったけれど彼は生きていた。生きていて、死にかけながらも助けてくれた。死ななくて良かったと言った。本当に、本当に良かったと、うわごとのようにひたすら。
 あの人が死んだと言われても、すぐには彼の遺体を見ることができなかった。傍に寄ろうとするだけで足が竦んだ。威圧感に体が潰されそうになった。
 柩の前に行くと鼻の奥がツンとした。まだ彼だと決まったわけではない。それなのにどうして。それから耐え切れずに涙が目に浮かんだ。瞬きをしてはいけない。
 敬礼をする。
 手が震えていた。
 本当は二人の間に敬礼も挨拶も、言葉さえ要らなかった。本当ならば。何も言わずに傍にいればそれで良かった。それなのに。
 一歩進む。
 涙が零れた。
 もう一歩。
 また、零れた。
 近づくたびに涙はどんどん溢れて止まらない。
 顔なんか見たくなかった。
 それでも柩を覗き込んでしまった。

 これは誰なの。

 たくましいと思っていたあの人の肩はこんなに小さかったかしら。大きいと思っていた手はこんなに小さかったかしら。あんなに熱かった体はこんなに冷たかったかしら。
 これは誰。
 誰かがきれいな死に顔、ぽつりと言ったのが聞こえた。どこがきれい。どこがきれいなのあの人の生きてるときを知っていたらそんなこと言わない。言えない。血の通った頬を知っている。柔らかい唇を知っている。これがあの人だなんて。何かの冗談としか思えなかった。
 目が釘付けになる。早く離れたかった。ここから逃げてしまいたかった。けれど動けなかった。逃げて逃げて逃げて、どこか遠くへ早く逃げて。もしかしたら床に接着剤でも撒いてあったのかしらなんて馬鹿げたことを考えてしまう。だって動けないんだもの。動けない。
 目を閉じることも叶わなかった。どうせ涙でろくに前は見えないのだから同じことだ。
 動けなかった。
 ここにはもう誰もいなくて、ただ私が一人泣いているだけだった。もう誰もいない。あの人もいない。ここにあるのはただの空の抜け殻であってあの人であったものでしかない。何とかして指を動かした。奇跡的に動いた。それをいいことに銃を取り出す。もうこの世界のどこにもあの人はいなくて、だからどうしたらいいかといえばそれは一つ。
 震える手でそのまま自分の頭に銃口をつきつけた。生き残ったりしないようにしなければならない。こうやって死のうとしても生き残ってしまうことだってあるということは知っていた。あの人は絶対にこんなことは望んでいないだろうということは簡単にわかった。きっと何か遺言があれば死ぬなとでも言い残したかもしれない。そういう人だから。
「…た…いさ…」
 喉が引きつれたような声しか出ない。
 かたかたと奮える銃口、指先はトリガーに。軽く力を込めた。息を吸って、引き金を引いた。

「私が死んだらまずは生き残れ」
 ロイはハボックに言った。
「はあ?縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「もしもの話だ。しっかり聞いておけ」
「遺言にはまだ早いんじゃ」
「言い残さないよりはマシだ」
 ロイはハボックの口からタバコを奪うと灰皿に押し込んだ。
「あー…」
「煙が鬱陶しい」
 ロイは自らの懐に手を入れて銃を取り出した。
「私が死んだら、お前はとりあえず生き残れ。それから中尉の銃から弾を抜け。全弾だ。一つでも残すなよ」
「自殺防止ですか?あの中尉相手にできるか怪しいっすよそれは」
「いいからやれ。それから彼女の家に言って刃物という刃物をすべて処分しろ。不法侵入しても私が許す」
「死んだ人間に許されても…」
「祟られないんだからいいだろう」
「できるころなら家具も何もかもすべてだといいんだが。犬と中尉だけにしてしまえ。電気も水道もガスも止めておけ」
「大佐、それ逆に生活できませんよ」
「……難しいな」
「そこまでしなくてもいいんじゃないですかー?」
「そこまでしなくてはならんのだ。間違えるな」
 ハボックはタバコを取り出す。ロイはそれを奪って口にくわえると火をつけた。
「煙、ウザいんじゃなかったんですか」
「たまにはいい」

 かちり、と音がした。
 弾が出てこない。
「中尉」
 聞きなれた男の声がした。
「弾は全部抜きました」
 後ろなんか振り返ることはできなかった。
「大佐に言われてたんです」
 ああどうしてこのひとはいつでもこうなの。
「…あのひとはすべて自分の望み通りにしてしまうのね」
「そうですね」
 からからと役立たずの銃弾が床に落ちる音がした。
「私は何故生きていなくてはいけないのかしら」
「大佐が死んでほしくないと思ったからじゃないですか?」
 俺もできることなら死んで欲しくありません、ハボック少尉は言った。
「私は死にたいわ」
「知ってます」
 ハボックは落とした銃弾を拾う。いち、に、さん、し、ご。
「…知ってます」
 後ろで扉が殴りつけられる音を聞いた。それでも振り返ることはできなかった。それから足音。現場では静かに走りなさいとあれほど言っておいたのに。
 彼の拾った銃弾は全部で五つ。
「やさしいひと」
 残りの一つはこの中だ。
 あの人の頬に触れてみた。冷たかった。涙が出た。起きてくれればいい。今ここで起きてくれればいい。そうすればもう何も望んだりしないのに。
 冷たい唇を指先でなぞった。口をつけてみるとかすかな腐敗を感じた。
「あとで会いましょう」
 また、いつか。








 







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