死別の翌日 とてもではないけれど眠ることなんてできなかった。 彼が帰らない日なんて、結婚してから出張以外では一度も無く、仕事でどんなに忙しくても必ず帰ってきて、娘にキスをしてまた戻る、なんてこともあった。 最近は特に忙しかったので今日もそうだろうとばかり思っていた。 『マース・ヒューズ中佐の奥様でしょうか?』 軍からの電話に、確かに嫌な予感がしたけれど、そんなものはねじ伏せた。意識しないように、そんなこと考えることじゃない。 あの人に何かあったらだなんて考えることさえ恐ろしかった。 少しだけ躊躇った後、中佐がお亡くなりになられました、とあまりに静かに、あまりに平然と言われてしまって何が何だかよくわからなかった。二階級特進でヒューズ准将に。そんなことはどうでもいい。あの人が何なの。一体どうしたの。 お亡くなりになられました。 まさか。そんなことあるわけがない。ふざけないで頂戴。イシュバールからだって戻ってきたような人なのに、それなのに。絶対に家族を残してどこかに行ってしまうような人ではけしてない。そんなことあるわけがないじゃない。そんなことあるわけ。 信じられなかった。おかげで涙もでなかった。 ――ああ、今日は帰ってくるのがとても遅いのね。 翌日、もう動かない体を見て、やっと涙が零れた。 冷たい体をどうにかしようと、その腕を必死にさすったけれどどうにもならない。 おいていかないで、おいていかないで。 娘が不思議そうに、「お父さん何で起きないの?もう朝なのに」と問う。 その小さな体を抱き締めることさえできないまま、ただがむしゃらに腕をさする。 どうして冷たいままなの。どうして目を覚まさないの。どうして、どうして置いていくの、行ってしまうの。 ――死別の翌日。 私は、卑怯にもただ茫然と涙を流すことしかできなかったのです。 |
この男不注意につき リザは未だ隣で寝こけている男を一瞥すると深く溜息をついた。 理由はただ一つ。重い。邪魔。暑苦しい。ええい上司のくせに。 一つじゃなかった。 「どうしたものかしら…」 呟いてみる。ベッドで無断に入り込むものなんて愛犬だけで充分だというのに。 「何が?」 明らかに笑みを含んだ男の声。狸寝入りか無能。 「ブラックハヤテ号」 リザは声を完璧に無視して愛犬を呼ぶ。優秀な彼女の家族の一員はその声に小走りでやってくる。 朝はうるさく吠えちゃダメ、とのご主人様の言い分をしっかりと守る彼は、いつもならいない彼女の上司には反抗的だ。 いい子ね、リザは無断で上司のシャツを拝借してベッドを降りようと―― 「中尉」 したところで、狸寝入りを決め込んだ誰かさんがリザの腰を引き寄せる。 大した抵抗もなく、リザはベッドに押し込まれた。 「……まったく」 「無視するとはどういう了見かね」 「あら、いないように扱っていいとは誰のお言葉でした?」 間違いなく、昨夜のロイの言葉だ。 昨晩遅くにやってきたロイは、そのとき寝ていて慌てて玄関へやってきたリザに言った。曰く、『今日は泊めてくれ。今日だけでいい。いないものと扱ってくれれば勝手にするから』 その言葉通りいないものと扱ったらこれだ。よりによって同じベッドに入り込んで思う存分いたずらしていった。これでは不機嫌になるなという方が無理だ。 「忘れてしまったな。さて誰だったか」 「貴方です」 リザはきっぱり言い放つとロイの肩を押した。 「まだ、時間はあるだろう?」 往生際の悪いロイにリザは顔をしかめる。ここまでやってもまだ飽き足らないとは。 「ありません。大佐と共に出勤するわけにも行きませんから」 「面倒だな」 「面倒にしたのはどこの誰ですか」 「それも忘れてしまったよ」 「ボケるには早すぎますよ。最近話題の若年性アルツハイマーでしょうか。医者にかかることをおすすめします」 それでもロイは惚けてリザの首筋にキスをする。昨夜の痕を辿るように舐める。 「大佐」 リザの肩を抑えこんでいたロイの左手はすでに太腿を這っている。 「大佐、やめてくださいっ!」 絶望的な気分だ。 どうして、何故、こんなことに。誰も答えなんて教えてくれない。 そのとき、主人の危機を感じ取ったのか、動いたのはブラックハヤテ号だった。 リザはそれに気づいたがあえて何も言わない。ロイは気づいていないようだ。抵抗を止めた獲物の前でにやけている。ああいざというとき無能のくせにこういうとき不能ではないのだからまいってしまう。 ベッドの縁から這い上がる愛犬をひたすら愛しく思ったそのとき、ロイのぎゃあ、ともひゃあ、ともつかない悲鳴が聞こえた。 勇気ある彼女の愛犬は空腹のままに軽くロイのふくらはぎを舐めてみたらしい。しかもどうやら彼はそこが弱かったようで、鳥肌を立てている。 そしてリザの顔に自身の鼻先をすりつけて朝ごはんをねだる。どうやら彼はこれが一番効果的なごはんのもらい方だと判断したらしい。 「いい子ね」 リザは鳥肌を立てた上司の体の下から這い出すと、ベッドを降りた。 ロイは不機嫌だった。 原因はたった一つだ。 朝ののんびりした――少々違うか――ある意味殺伐とした愛の交歓を邪魔されたからだ。もちろん邪魔するものはぶちのめすくらいの心づもりはあるのだがそれが彼女の愛犬であると思うとそうもいかない。実際自分も犬好きだ。それに犬だって邪魔したくてしたわけじゃない、きっと腹が減って仕方なかったのだ。何しろ相手は犬、本能の塊、それと同時に忠実の徒だ。 「中尉」 ベッドの上でぐだぐだと寝転びながら、ロイはリザに声をかける。リザは犬にエサをやっていた。 「コーヒーがほしいな」 「職場に行ったら飲んでください。経費ですから好きなだけ」 「私は今がいい」 「犬より手のかかること言わないでください」 ぴしゃりと言い切られるとさすがに何も言い返せない。ここにあるものはリザの私物だ。ということはすべてリザが自分の給金で買ったものなのだ。理屈はわかっている。わかっているけれども―― 「私は君にコーヒー一杯以上のことをしていると思うのだが」 「コーヒー一杯以上の迷惑ならかけられた覚えがたんまりとありますが」 「……君の脳は君に都合が良すぎる」 「あら、人の事言えないでしょう大佐」 結局かなわないのだから嫌になる。 深く付き合わない相手に対して口は達者なくせに親密な相手ほど逆にからかわれるようになるのはどうしてか。考えてみるがわからない。相手にして勝てるのは鋼の錬金術師だけのような気がしてきた。しかし彼は子供だ。経験の分こちらがまさっているのだから勝つのは当たり前。 「それは酷すぎやしないかね」 せめてコーヒー一杯くらい、ロイはなおも食い下がる。 「貴方の昨日の行いの方がよほど酷いと思いますが」 リザは朝食を食べ終わって満足そうなブラックハヤテ号の頭を撫でて、後片付けをする。 「……昨日というと」 「何ですかあれは。いきなり人の家に押しかけてきて。次の日も仕事だというのに。それよりもせっかくいい気分で寝てたのに」 「寝てたのを邪魔されたのが不快だったのかね」 「まあそうですね大体は」 「寝てない時間なら来てもかまわないと?」 「どうしてそうなるんですか」 「私なりの解釈だ」 「一度でいいので殴らせてください」 「断わるよ。君に殴られたらタダではすまなそうだ」 リザは溜息をついて浴室へ向かう。 「時間は?」 「まだあります。大佐が先に出てください」 「何だねそれは。君が先に出るんじゃないのか」 「何を言うんですか。それこそ女性に対して当然の優しさでしょう?」 ロイはとてとてとベッド脇にやってきたブラックハヤテ号を抱き上げる。 「聞いたかブラックハヤテ号。お前のご主人様は上官を労わってくれないんだ」 「部下を労わらない上官の方がどうしようもありませんよ」 犬に愚痴を言うほどに腐ってはいないつもりだったが、所詮「つもり」だったらしい。世界で優しいのがこの小さな子犬一匹に思えてきたのだから重傷だ。 「お前はよくもらわれたころ銃で撃たれてたな…」 ロイはじっとしているブラックハヤテ号の頭を撫でる。 「それがよくここまで堪えたな、お前はがんばったよ。私がいつまでたっても許してもらえないが…」 ロイは溜息をつく。シャワーの音が響いた。 そういえばコーヒー、結局いれてもらえなかった。 返答の無い浴室にロイは痺れを切らし、ブラックハヤテ号を抱いたままベッドを降りる。 「中尉」 ブラックハヤテ号を腕から放すと彼はどこかに駈けていく。 ああせっかく褒めてやったというのにお前も裏切るのか。 ロイは何となく落胆しながら――しかし考えてみればブラックハヤテ号はリザの飼い犬だ。飼い主の味方をするのは道理と言える――浴室に向かって声をかける。 「中尉、中尉ー」 聞こえていないということは無いだろう。さすがに浴室の戸の前で呼んでいて気づかなかったら彼女の耳を本気で心配しなければならない。 「リザ」 呼ばれることを嫌がるファーストネームを口にしてみてもリザは出てこない。それどころか返答さえない。 強硬手段しかないか。 ロイは浴室の戸に手をかけた。 「待て!」 なんだその犬に向かって言うような命令は。 「……リザ?」 ロイは取っ手に手をかけたまま呆然としてしまう。 「これから仕事なのにわざわざ疲れるつもりはないんです」 いやそれはこちらも同じだが。 しかし裸の彼女を目の前に黙っていられるだろうかというとそうではない。それが容易に想像できるのだから反論のしようが無い。 「押しかけてきた上司の面倒くらいはみますけれど」 それは一体どういうことか、そう言おうとしたロイの口は凍りついた。 リザが急に戸を開けたからだ。 何も身に付けず、裸のまま立っている濡れた彼女に、まずは驚愕、凍りつく。 「またあとで」 濡れた手が頬を這う感触。 ぞくぞくした。 リザの唇が軽く、遠慮がちなまでに軽く触れて、去っていく。 手には一瞬の濡れて張り付いた肌の感触。 どこの誰だ石鹸の匂いがさわやかだとぬかしたのは。さわやかどころか淫靡で甘いそれに脳が揺さぶられた気分だった。 リザは固まるロイを避けてタオルを手に取り、着替えに向かう。 しばらくするとコーヒーの香りがした。 それに気づいたがとても動けそうになかった。そうしていたら興味深そうに近寄ってくる犬に――ふくらはぎを舐められて、とりあえず叫んだ。 |
ぶちのめすわよマイラバー 彼はとてもではないけれどマトモとは言い難く、そのくせ地位と権力と金なんていわゆる人生の勝ち組要素を兼ね備えていたりするから性質が悪い。 「君は柔らかいな」 そういうこと言われるの嫌いなんです知らなかったんですか、刺々しい言葉を飲み込んで、リザはくすぐったそうに身をすくめる。 「やめてください」 「何故?」 「くすぐったいので」 制止の言葉に耳を貸さずに、ロイはリザの耳に舌を這わせる。 まずは耳たぶ、そして骨に沿って舐め上げる。このまま放っておくと耳の穴まで弄りだすに違いない。確信して、リザは体を離そうとする。 「逃げなくても」 「くすぐったいんです」 「本当に?」 「本当に」 「顔が赤い」 私がいっそのこと金で買われた女なら良かったんです。そうすればこんな風になることもなく、ただ妙に甲高い嬌声をいくらでも聞かせてあげたのに。現実の中の虚構でいい思いをさせてあげたのに。 少しだけ力を抜くと、彼はまた耳を弄り始める。 最初に出会ったときはこんな嗜好があるだなんて思ってもみなかった。 「くすぐったい?」 ええ、とか細い声で返すと彼は耳元でくつくつと喉を鳴らして笑った。 「感じる?」 ああもう。 ぶちのめすわよマイラバー! |
「どうしても行かれるんですか?」 「私が行かずに誰が行くんだ」 「貴方の決めたことでしたら私は止めません。やめるなら今のうちですよ」 「…もう後には戻れんだろう」 「そうですね。…私も、貴方も」 「君は来るな」 リザは驚愕に目を見開いた。 連れて行ってくれると思っていた。どこまでも共に、どこまでも。 「…っどうして…!」 「わかっているだろう」 ロイはリザの下腹部に手を這わせる。 それにまた驚愕し、リザはその手に自らのそれを重ねる。 「…ご存知だったんですか」 「私が分からないとでも思ったか。ヒューズが…グレイシアの妊娠中の時も電話でうるさかったからな。何かあるたびに軍の内線で私用電話だ。どうしようもなかった。…あのころは」 「大佐…」 ロイはリザの下腹部から手を離し、彼女を腕の中に抱き込んだ。 「帰ってくる。必ず」 確かな決意であったけれど、確かな誓いではなかった。 彼は必ず帰ってくると言いながら、半分は期待していない。 「待っていてくれ」 女を待たせるのは男の愚かなところです。 リザは喉まで出かかった言葉を飲み込み、ロイの肩に顔を埋めた。 ―――――――――――――――― 妊娠リザと出兵大佐。あくまでもネタ。 |
「ねえ」 少女は少年に手を引かれていた。手を引くというよりも引っ張るという方が正しいかもしれない。痕がついてしまうのではないかと思うほど強く握られていた。早足で急ぐ少年について行けず、少女は何度も転びそうになった。 「ねえ、どうしたの」 少年は無言だ。それがただ悲しくて悲しくて、少女は泣きたくなる。 「ねえ」 この手は温かく優しい手だった。さっきまでは。けれど今はとても冷たい。何があったの。誰にいじめられたの。 「お父さんとお母さんは?」 少年は立ち止まる。 息を切らしていた少女を振り返ることはできなかったのだろう、肩が小刻みに震えている。 「…もういない」 それだけ吐き捨てて、少年は再び歩き始める。 ああそうか、これからはずっと二人きり。 少女は悟った。 ―――――――――――――――― ロイアイ幼なじみネタ |
「リザ」 「はい?」 「ゲームをしようか」 「ゲーム?何をするんですか?」 「そうだな、今から敬語禁止」 「何ですかいきなり」 「私は公私の区別をはっきりさせたいタイプなのだが」 「よく存じ上げております。たまにそうでもないことがあるということも」 「…まあ、今はブライベートなのだからたまにはいいじゃないか」 「…狙いは何です?」 「君の仕事の時とは違う姿がもっと見たいだけだよ、リザちゃん」 「何ですかそれ」 「名案だろう」 「名案…」 「考えこまないでくれたまえ」 「敬語禁止って明らかに私が不利じゃないですか」 「じゃあわかった。私は今から一言もしゃべらないことにしよう。敬語を使ったら君の負け、声を出してしまったら私の負けだ」 「何を賭けます?」 「これから一週間ランチをおごろう。」 「では私は――そうですね、今日一日私を好きにさせてあげます」 「…何をしてもいいのかね?」 「どうぞ、何でも」 「よし乗った!」 「では、スタート」 声を出せないということは意外に辛い。目の前に愛しい彼女がいて、いつもはまとめあげている髪を下ろしていたりするからなおさらきれいなうなじがチラッチラ見えて気になって仕方ない。 彼女は黙ったままだ。雑誌をパラパラとめくる音だけが響いている。 ああこの首筋にむしゃぶりつきたい思いきり抱き締めたい胸に顔をうずめたい。 じっとしていられるわけがない。 ロイはリザの腰に手を伸ばす。とりあえず名前を呼べないのはよくないことだと思った。 「大佐…?」 抱き締めてみるとやはり柔らかかった。どうして君という生き物はこうも柔らかくて甘くて愛しいのだろう。 「大佐!離して、ちょっと邪魔」 邪魔とか言われるとさすがに傷ついちゃうんですよリザちゃん? 読書を邪魔されて不機嫌に怒る彼女もかわいくて仕方ない。 とりあえず蕩けさせてやりたい、と思う。 「大…んっ…」 不意打ちで唇塞いで息もできないくらいにしてやりたいもんですね。いや実際行動には移しているけども。 「はっ…」 唇を離して、角度を変えて何度も繰りかえす。聞こえるのは互いの息遣いとリザの喘ぎ、それから微かで卑猥な水音のみだ。 ロイはそのままリザのブラウスに手をかける。ボタンを外す手際は嫌味なくらい鮮やかだ。 「やっ…ダメ…」 何がダメなんだね? ああいじめたい言葉で責めたい泣かせてやりたい冷たいこと言って青ざめた顔とか見たいリザちゃんってばかーわいいなあもう! 気を取り直して下着の上からリザの胸に手をかぶせる。彼女の肩がピクリと震えた。 「大佐…」 あー何でもいいから泣いてくれ。そしたら涙をぬぐってあげよう。舌で。 敬語を使えないというのはなかなか難しい。 敬語と言うほどかっちりしたものではないけれどそれに慣れてしまっていたので――相手がこの男だから悪いのだ、きっと――とっさにいつもの口調が出てしまう。 「大佐…」 それならばどうすればいいのか。きっと彼は放っておくと飽きて勝手に喋り出すだろう。ならば自分が気をつければいいだけの話だ。そのためにはどうすればいいか。彼の名前だけ呼んでいればいい。 「大佐…」 ただひたすらに体をまさぐるロイは表情をあまり乱さない。これではいつもと逆だ。 声が聞けないということは予想以上に辛い。 今こんな風にしている時でも今日の彼はただ冷たい。胸の奥がしくしく疼いた。悲しくはない。悲しくはない。けれどただ痛くて不安。 「大佐…っ」 体の向きを変えてリザはロイの首に手を回す。どさくさでブラジャーのホックを外された。何だかんだで抜け目ない。 「お願いっ…」 名前を呼んで。呻いてみせて。今なら何を言っても許してあげる。愛してるとか見え見えの嘘をついてもかまわない。 「たいさっ…」 泣きそうになったところで、額に温もり。 ああこれだからこの人にはかなわない。 「リザ」 目許にも温もり。いつのまにか目に涙が浮いていたらしい。ロイはそれがこぼれ落ちる前に舌でそれを舐めとる。 「リザ」 リザが顔を上げると苦笑しているロイがそこにいた。 リザはロイの耳にキスをする。それから頬、額、鼻の頭、笑い合って、今度は唇。 頭の芯が痺れた。 「大佐…」 さっきから何がつまらないかと言うとリザが大佐、と自分のことを呼ぶだけだということだ。これが彼女の作戦か。 甘ったるい声で呼ばれるとどうも頭の奥が痺れる気がする。 「大佐…」 ああだからそれ誘ってるとしか思えないんですよリクエストにお応えしちゃうよ? 「大佐…っ」 体の向きを変えてリザはロイの首に手を回す。 まず衝撃。リザがこんな風に抱き付いてきたことはいまだかつて一度たりとて無い。 どさくさでブラジャーのホックを外す。手を中に忍ばせると柔らかくて気持ちいい。 「お願いっ…」 …誘ってる? もっと触れってことか?下の方も弄ってってこと?そうでなかったら早く挿れて?いやいやそれにはまだ早いだろう。どうして欲しいんだ君は。 耳元に湿った吐息と掠れた声。 すべてを都合よく解釈しそうな中、ほんと自分よく理性保ってるがんばってる。 「たいさっ…」 ――リザ。 泣きそうだ。名前を呼んびたい。キスして触ってもっと鳴かせたい。愛してるとか、今なら世迷言も本気で言える。 たまらなくなって額に口づけた。彼女は涙の溜まった目で見つめてくる。 ああ、ごめんねリザちゃん。 「リザ」 こぼれそうな涙をぬぐう。もちろん舌で。 「リザ」 抱き締めるとむせ返るように甘い匂いがした。思わず苦笑だ。 リザはロイの耳にキスをする。それから頬、額、鼻の頭、笑い合って、今度は唇。 「――リザ」 その場に彼女を押し倒すと、もうどうなってもいいような気がした。 「私の勝ちですね」 リザはなんだか嬉しそうだ。 「ああ、しかし君があんな声を出さなかったらきっと私が勝った」 「もしもの話は知りません」 「それはないだろう」 「人のこと言えないくせに何を」 ロイはリザの体を引き寄せて胸に顔をうずめる。 「一週間ランチ、約束ですよ?」 リザはロイの硬質の髪を梳く。大きな犬とじゃれてる気分だ。 「わかってるよハニー」 「わあ何ですかそれ気持ち悪い」 「君よくよく失礼だな」 「それは申し訳ありません」 「許してあげるよ。言うこと聞いてくれるなら特別に」 「それなら許してくれなくて結構です」 「さっきはかわいかったのに…」 「何か?」 「いいや、何でも」 ロイはリザの腿に指を這わせる。実力行使も手段のうちだ。 「大佐」 「何かなリザちゃん」 リザの頬が紅潮しているのを見て、ロイは気を良くする。上機嫌で首筋に吸い付く。 「一言、失礼します」 ロイは顔を上げる。リザは彼の頬を両手で包んで、唇をちろりと舐めた。 「クソッタレ」 リザは笑った。 |
ろくでなしの論理 「いずれ君も戦場と言う名の屠殺場で敵という畜生共を殺すんだ」 「っ俺はそんな――」 「これは君の決断だ鋼の錬金術師。違うかね?」 「仕組んだのはあんただ」 「そうと知って乗ったのは君だ」 「俺は今この時ほどあんたをくそったれだと思ったことねえよ」 「そうか」 私は君たちが羨ましくて仕方ないよ。けれどそんなことはとても言えないロクデナシな大人の論理。 |
雨が降るのを恐れなくなったのはいつの日か。 昔から雨は嫌いだった。雨が降るとろくなことがないからだ。頭痛がする。イラつく。無気力になる。それで何度人を傷つけただろう。考えてみるとキリがない。 「――雨だな」 ロイはぽつりとつぶやいた。雨の日は無能などと言われていても屋内は別だ。 「雨ですね」 リザはゆっくりと肯定する。 「雨というのは嫌なものだな」 「そうですか?」 人によっては雨の日に偏頭痛というのはよくあることだが、リザにはまったくそういうことはなかった。むしろ雨の方が気分がいい。 「私は好きですけど」 私が貴方を守る日ですから。 それは確かに常だけれども、雨の日はまた違う。その意味の重さが違う。 「大佐が外へ逃げずにここにいてくださるので」 要するに―― 「この書類をとりあえず終わらせろ、とそういうことかね?」 「あら、問い返すほどのことですか?」 ロイはため息をつく。 「君には参るよ」 本当は雨が嫌いだなんてことはない。静かに過ごすのは気分がいいからだ。何より、彼女が好きだと言っていたから。 本当は雨なんて好きじゃない。彼に危険が及ぶとしたらこの日に一番注意を払わなくてはいけないから。けれど、彼が嫌いだと言うから。 雨を恐れなくなったのはいつの日か (雨なんて恐ろしいもの、なくなってしまえばいいのに) |
「鎖骨が砕けるかと思った」 彼の唇があんまりに熱いので、あんまりに暴力的であったので。 このままこの熱で体が中から壊されてしまうのではないかと思って、どうしようもなくて。 「鎖骨が砕けるだけで済めばいいだろう」 ああもう、だから離れられないのよマイスウィート! |
このまま逃げてしまえばいい。 「大佐」 リザが声をかけても、ロイに目覚める気配はなかった。彼は安心しているとき、眠りが特に深い。 「マスタング大佐」 揺り起こしてみようとする。やはり起きない。 昨日は残業で、ひどく疲れていたのを知っている。ここで無理に起こすのもはばかられた。仕返しが怖かったというのもあるけれど。 「・・・しょうがないですね」 聞いていないはずなのに、リザは丁寧にも声を出して呟く。 もしかしたら気づいていたのかもしれない。 寝たふりをやめて言ってしまおうかとも思った。 このまま逃げてしまえばいい。 そうすればもう乱暴にもされない。酷い言葉をかけられることもない。女だから、と見下されることもない。 けれど彼女はけしてそんなことはしない。 逃げることのリスクを知っていたからだ。ならば見つからないようにすればいい。今だけならば、見逃せる気がするのに。ロイは思った。 「君は臆病だな」 呟きは聞こえただろう。 それでも彼女は逃げるなんて手段はとれない。 囚われてしまったのを知っているからだ。 このまま、人知れず逃げてしまえば。 考えるだけで罪のよう。 |
水の中 額に汗が滴る。 髪が張り付いてしまって邪魔だ。けれどかきあげているような暇などないのだ。 「リザ」 リザは答えない。言葉を忘れてしまったわけでも、意識がないわけでもなかった。 「返事は?」 「・・・名前で呼ばないでください」 「どうして」 「慣れておくためです。仕事中にうっかり名前を呼んでみたらどうなるかだなんて想像つくでしょう?」 「いいや。どうせ噂にはなっているだろう。今更気にすることか」 「気にすることです。例えばこれがハクロ将軍あたりの耳に入ったらどうなるかわかるでしょう?」 ロイはリザの頬に舌を這わせる。 蛇の通ったあとなんて見たことないけれど、きっとこんな風にぬらぬらと光っているかもしれない。 「あのクソジジイのことは気にしなくていい」 「・・・っ大佐!」 「では命令だリザ・ホークアイ。君の直属の上官は?」 「ロイ・マスタング大佐です」 「君が従うべきなのは?」 水の中にいる気分だ。 息苦しい。目を開けたらきっとひどく痛むだろう。 「・・・ロイ・マスタング大佐です」 息ができない。早く、早く誰か空気を頂戴。 「君は私に意見できる立場かね?」 誰か。 「・・・・・・いいえ、できません」 ロイは満足そうに微笑んだ。 |
顔をそむけないで ロイはリザの腕にかみついた。 「痛っ・・・」 血は出なかったけれどもくっきりと残る跡。はだけた軍服はもう意味をなしていない。それを見ることさえ躊躇われたのは、羞恥からかただの嫌悪からか。 「痛むのかね?」 自分でやっておいて何を言い出すのか、目で訴えるけれど彼はそれをわかってくれるほど器用な男ではない。 「いいえ」 「素直になればいいのに」 彼はキスマークを残すことと傷を残すことの違いがきっとわからないのだ。どうせ跡をつけるのなら同じだとでも思っているに違いない。 「痛い、と言ったら何かあるんですか?」 「私が楽しい」 前言撤回。 ロイは視線の訴えを気づいて無視しているのだ。不器用どころかとんでもない嘘つき。 「私は楽しくありません」 「だから何だね」 リザは言葉につまる。 ここでやめてくれ、とでも言ってしまったらきっと彼の思う壺だ。 「やめて欲しい?」 答えられなかった。 |
元ネタ:大佐は夜中にパンツ一丁でアイロンがけをする(爆笑) 「・・・・・・大佐」 リザが静かに立ち上がる。ロイは今まで聞いたことのある彼女の声の中でも格段に低いことに気づいた。 「・・・はい」 「この、経費にお心当たりはありますか?」 リザは先ほどロイが仕上げた書類の一つから数字の羅列を指差す。 大有りだった。後ろめたい気持ちになっても、誤魔化さなければ。冷や汗は心の中だけでかいているつもりだ。 「いや、知らないな」 「手袋代と明記されているのにご存知ではないと?」 書いたのは誰だ! 「そんなことを言われても知らんものは知らん!」 「大佐」 感情的に怒鳴ってうやむやにできたらずっと楽なのに、彼女はけしてそんなことをさせてはくれない。 「また、やりましたね?」 ぎくり。 ロイは自分の体が一瞬硬直するのを感じた。これでは肯定しているも同然だ。 「まったくもう、自分でアイロンがけくらいすると言っては焦がすんですから!第一手袋だって特殊な布を使うから結構かかるんです。それなのにいつもいつも経費で落とそうと思って・・・」 「気づいたら焦げてるんだから仕方な・・・」 「ではやらないでください」 「君は私に洗濯をするなと言うのか!」 「違います大佐不器用なんですよ!」 「き、君は上司に向かって・・・」 「その調子でシャツだっていつも焦がしてばっかりでそちらでばかりお金をかけてらっしゃるじゃありませんか」 「何で知ってるんだい君」 「そのくらいわかります」 なんとなく、なんとなく。 泣きそうになった。 |
狗である 自分の膝枕はたいそう寝づらいだろう、とロイは思う。 時として理性を失うまでになるのだ。彼女はそうさせる。無意識のうちに入り込んで、掴んで、離さない。そのくせ自らが無防備なのは何故であるのか。 優しすぎるから?違う。 油断しているから?違う。いや、ある意味正解だ。 狗であることを自らに強いているから?――もしかしたら、そうかもしれない。 リザは、ロイ・マスタングの狗であれ、とそう心に決めている。手足でないところが実に彼女らしい。手足が消えたら立てなくなるとでも思っているのだろうか。そうかもしれない。彼女は常に――常に、自分を思いやったりしない。 例えば今、ここで首を絞めても、きっと彼女は抵抗しない。そういうことなのだ。 そこまでの忠誠を求めたのは自分。 それに応じたのは彼女。 感情に気づいてしまったのは自分。 感情を無視する決意をしたのは彼女。 どこまでも平行線。 |
濁ることを知らない 例えばこの川の流れはただ篭るように轟々と。 嵐の後の濁ってしまった水のようだ。そう言うと、自虐はお止めください、淡々とした声が降ってくる。 「君は正直だな」 「そうですか?」 いいやそれは違う。彼女はただ嘘をつかないのだ。私に対して。 「大佐も正直ですよ、とても」 「当たり前だ。私が君にかなうはずもない」 なんですかそれは、彼女は呆れたように溜息をつく。 「ホークアイ中尉」 手をのばしたかった。彼女が私に向けるその目に触れてみたかった。 「君のファーストネームは何だったかな」 「・・・部下の名前くらい覚えておいてください。リザです」 「・・・そうか」 リザ、君は未だ濁りを知らぬからこそそう在れるのだよ。 |
違うのか お前は違うのか。 お前は違うのか。違うのか。 彼はただ繰り返した。まるでそれ以外の言葉を見失ってしまったかのよう。 それはとても憐れで情けなくとても愛しいことだった。 違うのか。 違うのよ。 彼は私を引き止めようと手をのばすけれどそれはとても無駄なことなのでそれを悟った私はこの首を。 |
へたくそで優しい愛を まったくわたくしは愛することに不器用なのです。 けれど思うだけならば一人前ではないの、と考えてしまうのです。 あの人はとても器用なお方ですのでわたくしは前に出ることなんてとてもできやしません。 愛することに不自由しないお方なのですもの、かないやしません。 けれどあの人は時折とても悲しそうな瞳で遠くを見つめるのです。 まるで愛しい人を見つめるかのような目で。 わたくしはそれに嫉妬してしまいます。 けれどそんなところは見せたくないので平然としている振りをするのです。 あの人はひたすらに前へ進むことを旨としている方ですけれど、少し振り返るくらいはいいのではないか、と思ってしまうのです。 けれどそんなことはとても言えません。 きっと嫌われてしまいますもの、いけません。 わたくしは後ろから拝見するのです。 伸びた背筋に負う悪徳。 その指の先に滴る誰か。 進む先にあるはずの孤独と恐怖、そして闇。 わたくしはそのようなものが見えるのです、けれどあの人に行くなとは言いません。 あの人は失えば良いのです。 あの人は失えば良いのです。 傍らに立つ美しい獣を。 取り巻く輝かしいものを。 振り返れば良いのです。 振り返れば良いのです。 そうすればわたくしはもう孤独に打ち震えずともよいのです。 ああこれがわたくしのへたくそで優しい愛。 |
息ができるまで ここにいる間は忘れて、と女は言った。 彼女はすべてを忘れろというのだ。自分の前では階級も仕事も破壊も野望も――錬金術も。 自分といるときはそれ以外のことを考えるなと。そんなバカな話があるか。 「君とは意見が合わないな」 何故。 震える唇が紡ぐ言葉はどうしてこんなにも汚らしいのか。 「忘れることは否定することだ」 「甘い言葉だけ残していくの?」 「君のためだ」 「いいえ貴方のためだわ」 勘だけは鋭い。そこが気に入っていた。 手に入らない女に似ていると思った。 「ならばわかるだろう」 物分りの悪い女は嫌いだった。 「貴方の愛する人はとても不幸せな人ね」 訂正。鋭い女も好きではない。 「どうして?」 「貴方みたいな人と共にいたらきっと狂ってしまうわ」 どうせなら狂わせてしまいたい。 あの髪も手も指も心も。 「手に入るなら厭うことなど無いさ」 この女の勘が鋭いところが好きだった。 彼女に似ていたからだ。 「最低」 この女の言葉も好きだった。 最初は彼女に似ていたからだ。 それを紡ぐ口に肺に酸素がなくなる五秒前。 |
彼はずいぶんと嫌な顔をしていた。 「少佐?どうなさったんですか」 ロイは一言も発することなく、リザの首に腕を回す。 「――吐き気がする」 ああ、そうか。 そのとき唐突に理解した。 吐き気がすると言ってうずくまりかけている彼の背をさすりながら、リザは思う。 生臭い。 このひとはいつも生臭い。 かわいそうだなんてとても言えないのは、彼をよく知っているから。 「少佐」 頬に、額に唇を寄せてただ眠らせてやれればいい。 とてもそれはかなわないことだけれど。 ――――――――――――――――――――――― 捏造過去話小ネタ。 |
手首をおさえる その行動に意味はあるのか。 彼は言った。彼はすべての行為に意味を見出さないと気がすまない性質なのかもしれない。 「いいえ」 彼女は答えた。意味など欠片もありはしない。 「ただのくせですよ」 どうしてそんなものが癖になったんだ。 彼はさらに言い募る。 彼は一体何がしたいのか。何が欲しいのか。何を奪いたいのか。 「・・・なんとなく」 「なんとなく?」 こんなささいな会話でも彼は不機嫌をみせる。 「君は傷が多すぎる」 手首からあふれ出る血液をどうにか止めようと強く握り締めたことがある。それだけだ。 あれは戦場でだった。吹き出た血液はとっさに対処できるようなことではなかった。敵が攻めてくる中、慌てふためく味方の手首をどうにかできるはずもなく、ただ強く握り締めた。ただ強く。 「いいえ」 そのとき手首に傷を負った兵は、あのときのスリルが忘れられなくなり自分で手首を切った挙句に死んだ。馬鹿だと思う。 「あなたは人のことなんか言えないでしょう」 彼はいつも子供のようにがむしゃら。 その言葉が癇に障ったのか、彼は彼女の手首を掴み、捻り上げた。 「痛っ・・・」 首を掴み(触れるなんて優しいものじゃない)そのままくちづける。 舌をねじ込まれさんざん嬲られた後、彼はポツリと呟いた。 「これも癖だ。文句は言わせない」 文句なんか言いません。 文句なんか言えません。 スリルが忘れられなくて命を落とした愚か者の気持ちが少しだけわかった。 癖になる。 |
知ることは罪である 無知を愛する貴方は私に無知であることを許さない。 何も知らずに安穏と暮らすことができないからこそその日々をいとおしむ。きっと一度舞い戻ってしまったら帰ってくることは出来ない世界。それは恐怖であり幸福であり悲壮であり快楽。 彼は多くを知りすぎた。 私も多くを知りすぎた。 あの優しい世界に生きるにおいて、知ることは罪。 私は時折あの生活に戻りたいと願い無知を装う。 けれどもそこに素晴らしく平和なそれは欠片も無いことを感じ取り私は失望する。何度でも失望する。 悲しくはない。 悲しくはない。 ただただ羨望。 知ることは罪である。 少なくとも私と彼にとっては、確実に。 |
見ないで。 首筋が髪に隠れてしまっていることがひどく不安だった。 今までならば確かにそれは自分にとって嬉しいことであり、目を楽しませてくれる重要なことの一つだった。今までは。 しかし今はどうにも不安で落ち着かない。どうしたロイ・マスタング。焔の錬金術師の称号を持つ国家錬金術師がこんな様をさらすとは。 必要なことも重要なことも探さなくとも存分に転がっている。この状態をどうするべきか、とそれを考えるのは二の次のはずだ。 「・・・大佐?」 おずおずとした、およそ普段からは考えられない声音でリザが声をかける。 どうしてこういう時に限ってこんな声で呼びかけてくるものか。 「・・・何かね」 「街灯がそこに」 金属の柱を目の前ギリギリに立ち止まる。ここで当たらなくて本当に良かった。 「・・・できたらもう少し早く教えてくれれば」 「すみません。何か考え事をしてらっしゃるようでしたので躊躇われて・・・」 ああそうか、ロイは呟く。 一体彼女はどんな重要なことを考え込んでいると思っているのだろうか。まさか自分についてだとは考えてもいまい。きっと先ほど得た情報について思い当たることがあるとでも思っているに違いない。 まったく自分が情けない。結局そんなことを考えられないほどにあの死刑囚が彼女にひっついていた場面が頭をよぎる。思い出すたびに何故あの時燃やさなかったのかと思って仕方ない。 「・・・大佐」 「何かね」 「行き止まりです」 今度は普通に顔を打ってしまった。だからもう少し早く。 「もう少し・・・」 「前を向いて歩いてくださいね」 このまま無言で歩いているのも息が詰まる。だからといって声をかけるのも不安だ。一体どうしたら。 「大佐」 唐突にリザがロイの腕をとる。いつもならばけして考えられない行動に少々驚くが、悪い気はしない。 「先ほどの、嬉しかったです」 訂正しよう、悪い気どころか非常に嬉しい。 「先ほどの?」 「『今夜の火力はちょっと凄いぞ』」 今ここで顔を見られてしまったらどうしよう、と心底困った。 きっととんでもなく情けないことになっているに違いない。 ほんの少し、泣きそうだ。 |
相互理解の欠如によるささいなトラブル 確かに悪かったという自覚はある。しかしそれは“私自身に対して”だ。彼女に非があるわけではけしてない。 「ですから何度も申し上げましたように私は明日から出張で」 「ああそれは判っているさ、だからどうして君なんだ」 「わかっていらっしゃるなら結構。私が行くことになったのは貴方の尻拭いのためであることをお忘れにならないでください」 「君怒っているだろう」 「ええ、実に」 「・・・・・・どうして」 「判らないんですか?」 「確かに悪いことをしたとは思っているさ。しかし私が自ら出向けばもっと――」 「それだと先方の思うつぼです。まさかむざむざと罠にはまりに行くおつもりですか?」 「しかし君に――」 なにかあったら。 声に出すことさえ恐ろしかった。彼女にもしも、何かあったら。 「私はそういうときのためにいるんです。お忘れなきよう」 「忘れるさ」 いくらでも忘れよう。何かあったら。心配さえできないなんてごめんだ。 「忘れてしまうよ」 彼女はただ黙って見ている。情けなく縋りつく男の手を。 「――離れるな」 どうか、こんな情けない男なのだということだけは忘れずに。 |
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